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葛城氏

人代(成熟期)

 「高良玉垂神宮秘書」によると阿部保蓮(開化天皇)と神功皇后の子である仁徳天皇は最初九州にいたと記録されることから仁徳天皇の皇后 磐之媛命の父と記される葛城氏の祖 長江曽都昆古(ナガエソツヒコ)後の葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)も九州にいたことが推測される。

葛城部

 部とは《古事記》《日本書紀》では,〈子代〉を〈子〉がないため,その〈代りに〉置いたものとするが,〈代(しろ)〉とは名目あるものの実体・客体をさすことばで,〈子のために〉設定されたものとする方がよく,この点では宮の名を負う名代もおなじであろう。

葛城部

葛城部が設置されたと考えられる葛城郷(葛木郷)は、主に瀬戸内海沿いに分布している。葛城部や葛城郷が確認できるのは以下の地域である。

鹿路神社

九州に記される肥前国の葛城部だが葛城氏の氏神である一言主を祀るのは奈良と佐賀の旧脊振村であり鹿路葛城地名の通り、ここより東の山が葛城岳であったと記される。儺の国の星に脊振を挟んて北は平群氏が北方貿易を主幹し、南は葛城氏によって南方貿易を主幹したと記される。

御祭神 一言主神
境内神社 金毘羅神社 金山彦命 莚原神社 手力雄命 山宇土神社 大国主命
一説には淳和天皇天長三年十一月拾壱月四日とす。
第九十代亀山天皇弘長三年拾壱月四日鹿路村民夢に一老翁出現し給い青衣を着し来りて告て曰く
吾是より東に当り葛城峰という山より来りし神なり明朝東方湲川辺を辱ぬべし我は則ち石上に在らん能し我を祭らばその土地永く守らん~中略~宮を営み葛城明神と崇め奉る後鹿路神社なった     佐賀県神社誌要由緒記 以下略

葛城一言主尊を祭神とし、弘長3年(1264)に創建されたといわれ、天文5年(1536)に神代勝利弐より再建され、弘治3年(1557)に現在地に遷座されています。本殿は檜皮葺建築で、拝殿木鼻には鹿が彫られています。鹿路の名は、後鳥羽上皇が絹巻の里へ向かう際、荊茂り藪が深く困難な道に「この路は鹿の通る路にてあらむ」と言ったことに由来すると伝えられています

〔古代〕平安期に見える郷名。「和名抄」三根郡五郷の1つ。刊本の訓は「加都良木」,伊勢本の訓は「加津良木」。式外社の葛木一言主神が三根町天建寺に祭祀されていることから,天建寺付近に比定される。また郷名から葛城部の存在が考えられる。「肥前国風土記」によれば,漢部郷に忍海漢人を連れてきて兵器を製造させたと記すが,忍海漢人と葛城氏との深い関連を考えると,忍海漢人と葛城氏が同時に移住してきた可能性が強い。

葛城神社 

背振の隣の三養基郡三根町大字天建寺字土居内は旧名は葛城部と呼ばれた場所である。

葛城神社
御祭神 一言主大神
本社は奈良県御所市にある一言主神社と同じく一言主大神を御祭神とする神社です。 一言主大神は「我は悪事も一言、善事も一言に言い放つ神、葛城一言主大神なり」と雄略天皇に答えられ、一言の願いあれば何事も御聞き届ける神として古くから親しまれ、信仰せれています。 その葛城部は日本書記によると、仁徳天皇七年に皇后の御名部としておかれたものであるとされています。 古代にはこの一帯を葛城郷といわれていました。 「貞観実録」という平安時代の古書の貞観十五年(八七一年)九月十六日の項に「肥前国正六位上葛城一言主神に従五位の神位を授けるとあり、又、正応五年(一二九一年)には社領十一町三反を有していたことが、別の古書に出ています いずれにしてもかつてはかなりの社格を持つ有力な神社として栄えていましたが、時は移り、豊臣秀吉による太閤検地により、すべての社領を没収され、それ以降は矢俣八幡神社の外宮として、矢俣八幡神社と共にこの矢俣郷の守り神として今日に至っています。   案内版より

一言主神社の御神体は一言主大神と幼武尊(わかたける)であると考えられる。両書によれば、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競ったという。ただし、『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されている一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されている。

葛城氏

 この一言主を主神とする葛城氏とは大和葛城地方を本拠地とする氏族で「紀氏家牒」によると武内宿禰を祖とする子の葛城襲津彦とは神功記 応神記 仁徳記に記される人物で中でも注意される点は襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。

「百済記」には壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた。

Wikipediaより

「記紀」によると仁徳をはじめ8天皇が葛城氏の娘を母か皇后としている点からも5世紀の大和は「大王と葛城氏の両頭政権」であったと考えられる。

分析

肥前には武内宿禰の父 屋主忍男武雄心命を祀る武雄神社 母親の山下影姫を祀る黒尾神社があり仁徳天皇の最初の宮 高津宮が存在することからも当初葛城氏は肥前を中心にいたことが想像される。

この葛城氏が蘇我氏や火(肥)の君に繋がったかは今後の調査が必要ですが肥前が拠点となったと考えられる。

コメント

  1. 松田洋司 より:

    一昨年来、百嶋神社考古学を学んでおります。
    百嶋神社考古学必読の書ということで、高良玉垂神宮秘書を入手したいと思いますが、入手したところで読破できるかどうかに不安があります。
    貴ブログに「高良玉垂宮神秘書 訳文」を見つけました。これが全部ということはないと思いますが、この後、どのように公開の予定でしょうか。
    ご教示頂きたくお願い申し上げます。
    他に参考になるようなブログ等があればお教え下さい。

    • akiraoosuga より:

      コメントありがとうございます。高良玉垂宮神秘書は現在中古本しか存在していません。入手はネットで入手できますが、程度はどのようなものか届いてみないと判らないようです。書かれたのは記載から鎌倉時代と思いますが、内容は神代から記されています。記載はかな文字に直してありますが、言い回しが古いのでネットで言葉を検索しながら読まれることをお勧めします。時代がランダムに出てきますので並び替えが必要かもしれません。百嶋神社考古学を学んでいるのであれば最終系図と照合すると判りやすいようです。
      現在公開している「高良玉垂宮神秘書」ですがフェイスブック 大須賀あきら アメーバの事代主のブログ に第一章のあと神功皇后 表筒男 底筒男と抜粋して解説を入れてありますのでご覧ください。

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