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警固神社

福岡県

福岡では有名な神社ですが、全国では非常に珍しい名前の神社があります。

中央区警固神社

鴻臚館

「警固」の名前については現在の福岡城にある鴻臚館(こうろかん)の記録に「869年(貞館1年),朝鮮海賊が来襲,鴻臚館に付設された「博多警固所」で守った。」とあります。

由緒

由緒書

警固神社(けごじんじゃ)

祭神 神直毘神・大直毘神・八十禍津日神(警固大明神)相殿 建角身神・豊玉姫命・神功皇后・応神天皇
 
当社の御祭神は記紀に見える神直日神 大直日神 八十禍津日神の三柱であります。
この御三神は仲哀愁天皇九年庚辰(西暦二〇〇年)筑前国群那珂郷福崎の筑紫石のほとりに化現し給い、その年の冬、神功皇后新羅親征の時に再び顕われ、軍衆を警固して勝利に導かれました。これにより皇后は凱旋の後、神号を警固大明神と仰いで、福崎丘上(現在の福岡城本丸跡)の奉祀せられました。 これが、警固大明神の創祀と伝えられております。
後世の慶長六年(一六〇一年)藩祖黒田長政公が福岡城築城の際、当社と薬院の地に御鎮座の小烏神社を城南下警固の山上に遷し合祀されました。~以下略~

 表向きはこのような由緒書きですが、実はこの神社は慶長13年(1608年)に福岡城主黒田長政が福岡に入国の際に中津でだまし討ちした城井神社の祭神 宇都宮鎮房とその一族を名前を変えて警固大明神として祀ったというのが中津城の城井神社に伝わっていますが・・・

天神の警固神社の由来の中に「御三神は仲哀愁天皇九年庚辰(西暦二〇〇年)筑前国群那珂郷福崎の筑紫石のほとりに化現し給い、その年の冬、神功皇后新羅親征の時に再び顕われ、軍衆を警固して勝利に導かれました。」とありました。祭神の八十禍津日神(警固大明神)祓戸の女神 瀬織津姫のことです。 神直毘神は鴨玉依姫 大直毘神神社は大山咋ので崇神天皇の家族になります。伝承などから考えると留守を守った崇神天皇こと中臣烏賊津使主 (なかとみの-いかつのおみ)のことを言っているような印象をうけます。

参道

手水舎
神門
黒田家の家紋

拝殿 本殿

千木は外削ぎです

摂社

御神水
天照皇 大神宮
菅原神社
今益稲荷神社

中央区の警固神社は鴻臚館にあった博多警固所と記載がありその警固が由来ですが、実は神功皇后にまつわる元宮は前にご紹介した日佐住吉神社と那珂川の現人神社の間に存在します。

那珂川警固神社

扁額

由緒

由緒書

警固神社由来記
一、福岡市南区警弥三丁目(旧上警固)
一、神直毘神・大直毘神・八十禍津日神(警固大明神)
警固大明神記録に「警固神社は昔那珂郡警固村に祀ってあったが、神功皇后が遠征の際に勝利を祈り、この三神を外敵防護の為下警固村の福崎に祀られた」とある。那珂郡警固村が当地であり、下警固村福崎は黒田長政公が福岡城を築く時その敷地となったので宏荘な社殿を建立して遷し祀られたのが現在天神二丁目の警固神社である。このように下警固の神社より古くから此の地に祀られていたのが、当警固神社である。下警固の方は歴代藩主の尊崇厚く造営修繕等から神事に至るまで藩庁からの公費が支給されたが、こちらは上警固村の氏神であり数少ない氏子の農民で祭り継がれてきたのである。筑前続風土記の上警固の項に「村名は警固神社のいますによりてか、又は警固田の置かれし故に言えり」とあり、また三大実録に「警固武衛の必要があり警固田からの租税を警固所の雑用に当てた」とある。祭神三神とも疾病災厄罪科を祓いて禍を転じ幸福となし、悲しみを変じて吉慶となし給う崇高なる御神徳にて国家安泰社会浄化の守護神として崇敬篤きなり。案内版より 

「記紀」では祭神の神直毘神・大直毘神・八十禍津日神は住吉三神の前に化生し伊邪奈岐命の穢れを正した神と云われます。

拝殿 本殿

神紋は違い鷹羽 阿蘇のものです あとは特に特徴はありません。

摂社

境内社
天満宮
猿田彦大神

神功皇后の三韓征伐における住吉三神とは中臣烏賊津 藤大臣(阿部保連) 武内宿禰のことであったとすると警固する場所は春日之伊邪河宮(開化天皇の皇居)か現人神社と考えてもいいのではないでしょうか?

近くに春日神社があるはずなので探してみましょう。

春日神社

春日神社を探すとものの1~2分の距離に春日神社が存在しました。

由緒

祭神 武甕槌命 天児屋根命 斎主王 天照大神
由緒書はありませんが「記紀」通りならここは開化天皇の皇居 春日之伊邪河宮のはずで、警固神社はここを警固する為の警固所ということになります。 

拝殿 本殿

虹梁の模様は月と兎に見えます月神ノ垂迹底筒男ノ尊の開化天皇のことと思います。

猿田彦大神

滓鹿(かすが)は製鉄の跡地の意味で鉄の無い奈良の地名「滓鹿(かすが)」の枕詞が「春日(はるひ)の」という音になったと師匠に教わりました。

奈良の春日之伊邪河宮 画像はお借りしました。

この辺りの氏子さんの姓は、圧倒的に藤さんが多いのも藤大臣 開化天皇の影響でしょう。また警固神社の宮司様の姓は廣田さんというらしく兵庫の廣田神社の宮司様と同じ名前で少なからず縁があるようです。

四箇警固神社

参考までに警固神社はもう一か所あって、それは早良区四箇に存在します。こちらは由緒書きがありませんので画像のみでお願いします。

祭神 神直毘神・大直毘神・八十禍津日神に埴安彦が入っています。彼は別名 大幡主で漢委奴国王であったそうです。
ここの警固は彼の為のものかもしれません。

分析

博多の警固神社は鴻臚館を警固する為にあり、警弥の警固神社は開化天皇の春日之伊邪河宮を警固する為のもので、こちらが警固神社の本宮となるようです。四箇の警固神社は不明ですが、場所から考えると那国の大幡主を警固する為のものと考えると自然だとおもいます。

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