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日本書記対照年表

聖徳太子
飛鳥時代年表

注:この年表は「日本書紀」と「隋書」「三国史記」他 神社に伝わる書等を参考にし私年号 法興を多利思北孤 聖徳を舒明と想定しています。

日本書記(継体~敏達)

  • 507年(継体元年)継体天皇 河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位
  • 527年(継体21年) 大和朝廷の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の筑紫国造磐井へ贈賄し、大和朝廷軍の妨害を要請した。
  • 527年(継体21年) 磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。大和朝廷では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命され、天皇から筑紫以西の統治を委任された。
  • 528年(継体22年) 磐井軍と大将軍の麁鹿火率いる大和朝廷軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉を大和朝廷へ献上し、死罪を免ぜられた。
  • 529年(継体23年)大和朝廷は再び近江毛野を任那安羅に派遣し新羅と領土交渉を行わせた。
  • 531年(安閑元年)皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位 その即位と同日に崩御した。
  • 536年(宣下元年)
  • 539年(欽明元年)宣化天皇崩御 欽明天皇即位 大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間にもうけた用明天皇以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年皇位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる。ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった。百済の聖明王とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年に任那を滅ぼしてしまう。これに激怒した欽明天皇は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。同年高句麗にも軍を送っている。「三国史記」では554年に似た記述が存在する。なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が「日本書紀」にある。
  • 572年(敏達元年)敏達天皇即位

日本書紀以外(継体~敏達)

  • 500年(武烈二年)倭人が長峯鎮(?)を攻め落とした。(新羅本記)
  • 528年(継体22年)新羅が仏教を公認(新羅本記)
  • 531年(安閑元年)日本の天皇及び太子、皇子がともに薨去された。(百済本記)
  • 532年(欽明元年)欽明の即位 「元興寺伽藍縁起」「上宮聖徳法王帝説」

考察1

継体天皇~敏達天皇までの「日本書紀」と「三国史記」を比較するとこのような隔たりがある。

本来527年(継体21年)大和朝廷が六万の兵で任那に向かい新羅と対峙した 529年 大和朝廷は再び近江毛野を任那安羅に派遣し新羅と領土交渉を行わせた。これが本当なら新羅本記に記載があるはずだが新羅本記には、翌年の仏教容認の記載しが記されていない。

しかし継体天皇の崩御 安閑の即位については似た記載がある。つまり新羅の出兵は創作の可能性が高いが、継体天皇の崩御は真実である可能性が高い

日本書記(用命~舒明)

  • 587年(用明元年)敏達天皇崩御 用明天皇即位
  • 587年(用命2年)用明天皇崩御 崇峻天皇即位 
  • 592年(崇峻5年)591年の任那復興軍の派遣 崇峻天皇蘇我馬子により暗殺 
  • 593年(推古1年)推古天皇即位 甥の聖徳太子が摂政を務めた。
  • 603年(推古11年) 冠位十二階制定
  • 604年 (推古12年)  十七条憲法制定
  • 607年(推古15年) 第一回遣隋使
  • 608年(推古16年) 第一回遣隋使帰国
  • 614年(推古22年) 最後の遣隋使 宝皇女 高向王に嫁ぎ漢皇子出産
  • 622年(推古30年) 膳部菩岐々美郎女死去 後を追うように聖徳太子死去
  • 624年(推古32年) 蘇我馬子葛城県の権利を主張
  • 626年(推古34年) 蘇我馬子も死去
  • 632年(推古36年) 推古天皇崩御 舒明天皇即位
  • 641年(舒明13年) 舒明天皇崩御

日本書紀以外(用命~舒明)

  • 591年(崇峻4年) 多利思北孤が端政三年(五九一)に仏門に入り法興を授かる 
  • 596年(推古4年) 「法王大王」が伊予を訪れた『伊予国風土記逸文』中の「伊予温湯碑」
  • 597年(推古5年) 阿佐太子日本に渡って聖徳太子の肖像画を描いた
  • 600年(推古8年) 第1回遣隋使 
  • 607年(推古15年) 第2回遣隋使 大業3年(607年)の国書に「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を怒らせた(「隋書」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)
  • 608年(推古16年) 608年 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。(百済本記)
  • 622年(推古26年) 翌年(622年)の正月二十二日に前皇太后が亡くなり、その年の正月二十二日(622年正月三十日)、王は枕元で病んで脳が乾き、皇后はまだ病気で寝込んでいた。(釈迦三尊像光背銘文)
  • 632年(推古36年) 敏達天皇の孫である田村は、その治世の初年に聖徳と改名し、その治世の6年目には旧暦1月8日に彗星が現れ、その治世の7年目には旧暦1月3日に彗星が現れた。『海東諸国記』
  • 634年(舒明3年) 舒明帝の時代、聖徳は3年目で終わった。『襲國偽僭考』 不忍坂天皇の長兄の息子。敏達の孫。 治承元年に即位。 大和高市岡本神社に住す。 治承13年生まれ。 49歳まで生きる。『如是院年代記』 役小角生誕 『箕面寺秘密縁起』他
  • 646年(大化2年)「斑鳩いかるが厩戸うまやど勝鬘しょうまん」の署名の入った文書が存在する。『善光寺縁起集註』

考察2

敏達天皇の即位後  多利思北孤(用明)が即位したか間に崇峻が即位したかは不明だが 多利思北孤は600年 607年の二回遣隋使を行っている。これは推古天皇が行った遣隋使の回数と同じで内容も類似している。

また馬子と聖徳太子の功績 官位十二階と仏教の推進も多利思比孤の功績であり聖徳太子と蘇我馬子の死去の時 外部資料では多利思北孤(用明)はまだ生存していることから聖徳太子と蘇我馬子とは「日本書紀」で崩御した用明天皇の別名であると推測される。

多利思北孤(用明)の(632年)崩御後即位した舒明(聖徳)の治世は3年であったことが記されている。

善光寺の文書 646年(大化2年)まで舒明(聖徳)が存在したかもしくはその関係者が名を使用したかは不明だが「斑鳩いかるが厩戸うまやど勝鬘しょうまん」の署名が入った書は存在する。

総合すると推古天皇の時代は存在しなかったが敏達天皇の妻を推古天皇とすることによりほぼ姻戚関係には変化が見られない。

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