聖徳太子と面会した人物として百済の聖明王の王子 阿佐太子を招いた人物として火の君の記録が三か所に残っている。
- 稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる
- 現在は亀蛇に駕した妙見菩薩が本尊である。『肥後国誌』には「妙見山ノ内赤津知山ノ上ニアリ」と記され、『鎮宅霊符神』によれば、百済国聖明王の第三王子琳聖太子が八代に渡来の折に伝えられ、肥後国八代郡白木山神宮寺に鎮座したのが日本最初の霊符神とされている。霊符は上に太上神仙鎮宅霊符と題し、中央に本尊妙見の亀蛇に駕する像を図し、その周囲に北斗七星、左右に七十二の秘法を書き、下に霊符釈を記してある。
- 「肥後国誌」によれば百済国聖名明王の第三皇子が八代に渡来の折に伝えられ、肥後国八代郡白木山神宮寺に鎮座したのが日本最初の霊符神とされ、霊符神と妙見神は同一神とされる。
この三つの縁起に共通するのが霊符 百済聖明王の王子阿佐太子 火ノ君 である。
霊符
この伝承に残る霊符とは陰陽師が祭壇として使用するもので説明をすると
漢の孝文帝と鎮宅七十二霊符(霊符釈)
肥州八代庄正法寺快尊
太上神仙伝 弘農県 劉進平 七十二道秘法霊符の叙
漢の孝文帝(文帝BC180-157)は、家相・風水の術に通じていた。孝文帝が、弘農県を行幸した時、大凶の家相を持つ家を見た。この家は「三愚」と言われる大凶の相を全て備えていた。すなわち、宅前が高く後方の地が低い一愚、北側に流水がある二愚、東南方が高く西北方に平地がある三愚である。
これを見て皇帝は、この家は衰退していると思った。
ところが、その家は富み栄え、家族は全員仲良く健康そのもので、裕福に幸せに暮らしている。不思議に思った皇帝は、その家の主である劉進平を召し出して、理由を尋ねた。
彼が答えるに、確かに昔は災難が多く、一家は不幸でした。ところがある日、二人の書生が尋ねて来て、七十二枚の霊符とこの祭り方を伝授してくれたという。この修法を実践すれば、十年にして金持ちになり、二十年にして子孫繁栄し、三十年にして白衣を着た皇帝が家を訪ねて来るまでになるだろう、と。
後に、劉進平は金持ちになり子孫繁栄したが、「白衣の皇帝が尋ねてくる」という予言はまだ成就していない、と答えた。
これを聞いて驚いた孝文帝は「我こそが皇帝である」と名乗った。そして、これほど霊験あらたかな霊符は、ぜひ世に広めるべしと、天下に伝え施した。
阿佐太子
この霊符を伝えた阿佐太子とは
阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 – 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。
Wikipediaより
火(肥)の君
百済から阿佐太子を招いた火の君とは『日本書紀』に「筑紫の君の児、火中君の弟」と記されてる。つまり筑紫君と火の君は姻戚関係にあったと想像される。
火の君の本貫地は、物見櫓(ものみやぐら)古墳、姫ノ城(ひめのじょう)古墳、中ノ城(なかのじょう)古墳、端ノ城(はしのじょう)古墳 のある竜北町 御霊神社のある氷川町で居住地は八代の妙見宮 祭神は天之御中主神 国之常立神であったことが想像される。
分析
伝承によれば、阿蘇国造の速瓶玉命の奥方は神功皇后の三韓征伐に勲功をたてられた宇土郡三角町の郡浦(こうのうら)神社の祭神蒲池媛(かまちひめ)とされる一方では、速瓶玉命は小国生まれの雨宮媛とも結婚をなしており、小国町の両神社には、その間に生まれた火宮神、高橋神が祀られている。また上益城郡の甲佐神社には、健磐龍命の第二子という八井耳玉命(速瓶玉命の二子ともいう)が祀られており、健軍神社の創建は、三韓征伐の折、健磐龍命がその地に子供の姿になっておいでになり、戦勝を析ったことが由来となっている。これら健磐龍命を中心とする神々の系譜をみるとき、阿蘇氏の肥後における版図拡大の構図がと浮かんでくる。
阿蘇神話によると、草部吉見神は神武天皇によって先に九州へ派遣されていた日子八井耳命のことで、健磐龍命とは伯父甥の関係になるとしている。井上辰雄筑波大教授は、草部が「日下部」に通ずる地名であることから、この南郷谷の草部は日下部一族の居住地ではなかったか、と推定する。「日下部」というのは、雄略天皇の后妃の部民が置かれたところで、重要な軍事的拠点とされていた。阿蘇の草部も、日向の延岡から五ケ瀬川をさかのぼり、高千穂を通って阿蘇に入る重要ルートに位置しており、また一方、阿蘇から熊本平野に下る途中(合志郡)にも日下部の一族が配置されていたようだという。つまり、阿蘇からの主要幹線は、すべて日下部におさえられていた。阿蘇氏とすれば、この日下部と同族的な結合を強めることなしには、その勢力を伸ばすことはできなかった。健磐龍命が草部吉見の姫をめとったとするのも、恐らく南郷谷の勢力との協調を物語る伝承と解してよかろう、というのが井上説。
『日本書紀』には、神功皇后が三韓征伐に向かう際、豊浦津で如意宝珠を海中から得たとあるが、阿蘇の神話では、神功皇后に側役として付き従った蒲池媛が持っていた満珠・干珠を投げて、潮を満ち引きさせ、新羅の軍に戦わずして上陸できたとなっている。 「この満珠の方は、蒲池媛を祀った宇土半島の郡浦(こうのうら)神社に、干珠は阿蘇南郷の草部吉見神社にあったという
この氏族は阿蘇氏と辰国の天日鉾 豊玉彦両方の血を引くハイブリッドであると判断される。「高良玉垂宮神秘書」にある文と系図を図にすると(火の君系図)。そして聖徳太子を護るこの氏族の名は中臣鳥賊津で氏族の姓は橘であったと考えられ中臣(藤原)鎌足に繋がる可能性が大きい。
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