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気比神宮

福井県

忍熊王を祀る織田明神で素戔嗚尊と共に祀られていたのが越前一之宮に鎮座するこの神です。

参道

一の鳥居

ここの両部鳥居は安芸の厳島神社 奈良の春日大社と並び日本三大鳥居の一つと言われています。

手水社

由緒

由緒書

北陸道総鎮守 越前国一之宮 気比神宮祭神七座
伊奢沙別命(気比大神) ・帯中津日子命(仲哀天皇)・息長足帯姫命(神功皇后)・日本武尊・誉田別命(応神天皇)玉姫・武内宿禰

由緒沿革
伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治28年3月26日、神宮号宣下の御沙汰により氣比神宮と改められた。延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に「越前國敦賀郡氣比神社七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治28年、官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨(みくりや)となった。渤海使(ぼっかいし)が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。南北朝争乱の延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて足利軍を迎え奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(1570)4月大神司憲直等一族は越前国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、48家の祠官36坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家8家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和25年御本殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社之宮の復興を見て、祭祀の厳修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御代に至って御大典記念氣比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新。更に国家管理時代の社務所が昭和20年の戦火で焼失し、その後敦賀区裁判所の庁舎を移築、長く利用してきたが、老朽化により已むなく解体、平成23年6月大社に相応しい格式ある総木造社務所が新築落成した。 

由緒にある御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。とある玉姫というのが川上タケルの妹 佐賀の淀姫のことであることは以前ブログでごしょうかいしました。式内社、紀伊国一宮 丹生都比売神社の第三殿 大食津比売大神 (おおげつひめのおおかみ) 通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮(福井県敦賀市)からの勧請と伝える。

境内

三五の桐に右三つ巴
拝殿

摂社

九社之宮 神明両宮

こちらが本来の神ですね。

九社之宮 神明両宮 御由緒

ここで目を引くのは伊奢沙別命(いざさわけのみこと). 別名 氣比大神・笥飯大神(けひのおおかみ)と天照大御神と豊受大神です。すると本殿拝殿は神功皇后達ということになります。

猿田彦大神

分析

元々気比神宮は伊奢沙別命(気比大神)のみ祭っていたのですが、応神天皇の逸話依頼その他の神を祭るようになったと考えられます。では最初の 神伊奢沙別命(気比大神)とは誰のことかというと次の文書から想像できます。

建内宿禰は皇太子(=ホンダワケ【応神天皇】)を連れて禊(ミソギ)をしようと、近江や若狭を巡り、越前の敦賀(ツルガ)に仮宮を建てて、滞在していました。
その敦賀の土地にいる伊奢沙和気大神(イザサワケ)が建内宿禰の夢に出て言いました。
「わたしの名前をその子の名前に変えたい」
ソレに対して建内宿禰は
「恐れ多いことです。
おっしゃるとおりに名を交換しましょう」
するとその神は
「明日の朝、浜に出かけなさい。
名を変えた『しるし』を差し上げましょう」
と言いました。
ホンダワケ皇太子が翌朝、浜辺に行ってみると、鼻の傷ついたイルカが、集まっていました。
それを見て、皇太子は言いました。
「私は神より、食料の魚をたまわった」
それで、その神を御食津大神(ミケツオオカミ【ミケツは神の食べる食物・天皇が食べる食物の意味】)と名づけました。現在は気比大神といいます。
またイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を「血浦」といいます。現在は「都奴賀(ツヌガ)」といいます。

古事記より

この御食の名前を持つ神こそが元々の神で 加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと) 『先代旧事本紀』「神代本紀」には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあります。また気比大神とは、糸島の宇美八幡宮の伝承で神功皇后の先祖である天日鉾のことであるとありました。つまり天日鉾=気比大神=加夫呂伎熊野大神櫛御気野命=建速素戔嗚尊ということになり 天日鉾は素戔嗚ということになります。

つまり神功皇后の母方の祖 天日鉾は素戔嗚尊の別名で忍熊王の祖 素戔嗚尊と同一人物ということになり、同族間で皇位を争ったことが導きだせます。

つまり神功皇后は天日鉾の子孫と名乗ることで素戔嗚尊の子孫の忍熊王と同族間の争いを隠したといえます。

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