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宇佐八幡宮摂社

大分県

宇佐八幡宮の比売大神に目が行きがちですが、他にも多くの摂社が存在します。

阿良礼神社

「八幡大神の奇瑞を現された阿良礼神社」
とある。八幡神の奇瑞とは、神が三歳の童子と化して竹の葉の上に顕れ、『辛国城(カラクニノキ)にはじめて八流の幡を天降し、吾は日本の神となれり』と託宣した。

阿良礼神社 画像はお借りしました

この阿良礼宮は石碑のみで社殿の無い神社です。

鉾立神社

鉾立神社

宇佐氏大字南宇佐字大宮迫

祭神 八幡大神

欽明天皇三十一(五七〇)年に応神天皇の信託が大神比義にあり、翁がここに鉾を縦て神座とした。以来和同五(七一二)年の間、朝廷の詔により比義翁が玉垣の中の鉾に向かって祭文を奏した聖地である。(掲示板より)

ここは大尾神社より 更に二百年も古く、鷹居神社の由緒書きにある

応神天皇の御神霊を八幡大神と称し奉るは、人皇30代欽明天皇の御宇29年(568)豊前国宇佐郡宇佐の亀山(小椋山菱形山)の麓に三才の小児とあらわれ、「吾れは応神天皇の神霊広幡八幡麻呂なり」と大神比義に諭された。

とされる聖地のことではないでしょうか?

すると八幡大神は、初見はここに祭られ、次に鷹居神社 奈良の大仏の開眼で奈良へ、次いで伊予の宇和、そして大尾神社  今の本殿に祭られたのは称徳天皇(孝謙天皇)の時代より後ということになります。

大尾神社

天平神護玄(765)から16年間、現在の上宮があった場所です。11世紀中頃には参議源資通るにより蓮台寺が創建されました。

大尾神社の由緒
御祭神 八幡大神
 八幡大神は奈良の都の大仏開眼式に臨まれ、宇佐へご帰還ののち、天平神護元年(七六五年)大尾山にしばし御鎮座するとの御託宣により山上に本殿を造営、十五年間お鎮まりになった。この間、神護元年(七六九年)七月十一日、和気公は「宇佐使」として当地に参向、皇統を守護する托宣を受けられた、大神が本営へ還御されたのち御勅拝受の聖蹟として八幡大神の御分霊を祀り 大尾神社と称された。
案内版より

なんと 和気清麻呂が御神教を受けたのは、今の宇佐神宮本殿の比売大神では無く、ここで八幡大神様より国体擁護の御神教を授かった聖地だそうです。

護王神社

護王神社
神護景雲三年(769年)7月11日、和気公は宇佐使として当地に参向「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」という八幡大神の御神託を受け、道鏡の野望はくじかれ皇統が守護された。

山上の摂社大尾神社付近は神託を受けた旧蹟である。(掲示板より)

百体神社

百体神社
伝承では、隼人反乱鎮圧後、持ち帰った隼人の首・百体を埋めたものというが、塚そのものは6世紀頃の横穴式古墳の石室が露出したもので、8世紀の隼人反乱とは関係ない。

「この井戸は、聖武天皇の神亀元年(724)『隼人の慰霊のため、放生会を奉仕する』との神託により始められた放生会の儀式に奉仕する、福岡県吉富町鎮座の古表神社および中津市藤田鎮座の古要神社のご神体である“傀儡人形”が化粧するための井戸である。因みに、この両神社の傀儡は隼人征伐に参加し、隼人らはこの傀儡に見とれている間に伐たれたと伝えられている」

「大隅日向の隼人の霊を祀る。養老4年(720)に八幡大神は隼人征伐に行幸になり、養老7年(723)にご帰還のとき、百体の隼人の首を持ち帰り、松隈の地に埋められたもので、これを“凶首塚”という。その後、隼人の霊を慰め悪を更正させるため放生会をおこない、この神社を創始した。百人の霊であるから“百体神社”という」

また化粧井戸で洗った傀儡子があわせて100体あったので「百体神社」と呼ばれるようになったとも云われてるそうです。

古表神社の傀儡子は、大隅隼人を祀るここと関係が深いようです。

百体神社を祀る凶首塚は、百体神社と関係のない磐井の乱の頃の古墳で、百体神社の名前の由来となった「化粧井戸」の傀儡子が100体であったので百体神社ということは、その傀儡子は大隅隼人自身を表しているということかもしれません。

鷹居八幡宮

日田の大原八幡宮の由緒書に

天武天皇白鳳9年(680年)、靱負郷岩松峰(日田市天瀬町金場の北)に宇佐の鷹の居の社にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍形尾の宮)を建てて祀ったことが初めである。

鷹居八幡宮

御祭神
仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
由緒
応神天皇の神霊は元明天皇和銅3年(710)の御出顕で、御父仲哀天皇、御母神功皇后の神霊は後に合わせ祭るとある。

応神天皇の御神霊を八幡大神と称し奉るは、人皇30代欽明天皇の御宇29年(568)豊前国宇佐郡宇佐の亀山(小椋山菱形山)の麓に三才の小児とあらわれ、「吾れは応神天皇の神霊広幡八幡麻呂なり」と大神比義に諭された。

その後、神殿を造営するにあたり、人皇43代元明天皇和銅3年(710)この鷹居山に三歳の小児が鷹となって飛来し、再度大神比義に諭された。

比義は朝廷に社殿のご造営を奏され、ここに八幡大神の神霊を祀る最初の霊地「やしろ」が造営された。

霊亀2年(716)この官道(国道)は人の往来が激しいので、小山田の林に移りたいとの託宣により、小山田社に移祀され、また、この小山田社も境内がせまいので、小椋山に移りたいとして、神亀2年(725)、現在の宇佐神宮へ移祀された。

以後、この鷹居社、小山田社の二社は江戸末期まで宇佐神宮の摂社として存続したが、明治維新以後、各神社は地域住民の鎮守のヤシロとされた。

平成16年3月 宇佐市商工会議所 観光部会 部会長賀来聖壱 他部会員一同

分析

宇佐神宮の摂社は八幡大神に関するものが多いのですが、最初にご紹介した応神天皇の初見の阿良礼神社竹葉の君らしき跡があります。竹葉瀬の君とは応神天皇が七歳で夭折した為、同年の竹葉瀬の君を養子として応神天皇の身代わりとしたと伝わる人物です。摂社にこの人物が祀られているのなら可能性は高いとうです。

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