先日ご紹介した現人神社 裂田の溝 警固神社 伏見神社の近くとなれば開化天皇と神功皇后の息子の仁徳天皇の宮があっても不思議はありません。
仁徳天皇の宮の名前は難波高津宮ですので同じ名前の宮があるはずです。裂田の溝沿いに歩いて行くとありました。
高津神社
参道
かなり厳しい岩場が続きます。
由緒
高津神社
高津正一位稲荷 豊宇気毘売神
原田種直 岩戸城主(龍神山)
高津権現 原田家の守り神である(糸島郡前原町八幡神社の熊野権現様から分祀
→ 前原市東1105の正八幡神社の境内社・熊野神社となります)
(平安時代、原田種直が伊都の高祖神社を勧請したのが始まりともいわれる。)
よく見ると山田の伏見神社から頓宮されたあとが消されています。鎌倉時代の元寇の折、砦として使用されたとあります。
拝殿
ちょっと見た目にはお稲荷様ですが、気になるのは神階の最高位の正一位です。京都の伏見稲荷は正一位ですそれにより正一位を名乗る稲荷は増えたそうです。
しかしここの稲荷は京都ではなく消された山田の伏見神社から勧請されたとあります。更にその扁額は仁徳天皇特有の扁額なのです。
更に神功皇后と開化天皇は間違いなくこの辺りに居を構えたようなのでその息子の仁徳天皇の住まいもこの辺りであった可能性も否定できません。
難波高津宮
そして応神天皇亡き後次の皇位についたのは、九州の高津宮から招かれた仁徳天皇であったようです。
参道
拝殿 本殿
由緒
高津宮
御祭神
左殿 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 本殿 仁徳天皇 右殿 葦姫皇后 履中天皇
末社
比売古曽神社 下照姫 高倉稲荷神社 宇賀之御魂命 安井稲荷 宇賀之御魂命 白菊神社 草野姫
千年神社 大市姫 常高神社 大山祇神
当宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であります。
仁徳天皇が高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られて人民の窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済されました御仁政はあまねく国民の敬慕する処であります。
その御仁政を慕い平安期の初期清和天皇の貞観八年(866年)勅命(天皇の命令)によって旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いてお祭りしたのを創始といたします。以後世々皇室を始め時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて浪速津の守護神と仰がれ御神威輝き渡ったのでありますが、その後700年を経た正親町天皇の天正十一年(1583年)豊臣秀吉が大阪城の築城に際し比売古曽社の現在地に御遷座(神社の御神体が移ること)になって今日に及んでおります。
仁徳天皇の徳政を敬い大正十年に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさねきて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市・・・」と歌われています。
昭和二十年三月の第二次大戦の戦火を浴び神輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失しました。しかし戦後氏子を始め崇敬の厚い奉賛により昭和三十六年十月社殿以下ことごとく復興完成を見ました。
以下略 案内版より
末社
桂文枝之碑
古典落語「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心として賑わっていた。境内の参集殿は「高津の富亭」と名づけられており、落語の寄席や文楽などが行われている。高津の富亭での寄席には五代目桂文枝一門がかかわっており、文枝最後の口演「高津の富」が演じられたのも「高津の富亭」で開かれた「くろもん寄席」である。
仁徳天皇は開化天皇の九躰皇子の筆頭 斯礼賀志ノ命神(シレガシ)の別名と云われ九躰皇子の名前の無い応神天皇とは別系統の皇子と云われています。時代に関してはほぼ同時代ですが、「記紀」には息子として記載されています。年代は中国の「宋書」にある倭の五王の讃のことで西暦413年から記載されています。
つまり開化天皇と神功皇后と崇神天皇と武内宿禰はその前の時代の人間(四世紀末)であることが判ります。
年表計算式
実は裂田の溝から計算式が導かれ、神功皇后の年代が割り出せます。
① 桜宮鎮座 西暦268年 (1918-1650=268)
② 住吉大社創立 西暦211年 (2001-1790=211) 皇后摂政11年 摂政元年西暦201年
③ 皇后摂政元年 西暦201年 摂政西暦201-269年 69年間
④ 没年齢100年
⑤ 皇后没年 西暦269年 (2001-269=1732)
⑥ 皇后生年 西暦169年 (2001-169=1832)
⑦ 皇后摂政終年 西暦269年 – 住吉大社創立西暦211年 = 58 補正
⑧ 往年 42年=100-58
⑨ 皇后生年 西暦227年 – 269年 (実年代347-389年)
神功皇后の西暦2001年を基準にした積年計算
住吉大社祭事紀、三省堂皇紀年表、桜宮(仮称)由緒記をもとに計算されている。
結果は猫宮(仮称)由緒記と一致するという。
また神功・応神紀が2運120年ずれているのは、『三国史記』で405年乙巳の百済の阿花王死亡が、『書紀』では応神16年(『書紀』紀年285年乙巳)に書かれていること等から明らかである。
先ほどの倭の五王と照合するとほぼ合っていると考えられます。
二代前の鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) 三代前の彦火々出見はほぼ卑弥呼と同年代になるとおもいます。
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