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宇佐八幡宮元宮とは

大分県

宇佐八幡宮の創建までに多くの神社がかかわってきました。その中でも重要な神社を抜粋してご紹介します。

大分八幡宮

この神社と宇佐神宮の関わりは、第一殿の祭神 応神天皇と第三殿の祭神 神功皇后にあるようです。

由緒

大分八幡宮由緒記
祭神 
応神天皇 神功皇后 玉依姫命
由緒
当宮は、神功皇后御征韓後粕屋の宇美邑にて応神天皇御出産遊ばされ、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある験しい山「ショウケ越え」を経られ、当宮に至り坐して暫しお止りになり筑紫の行政をお執り遊ばされ、此地にて軍隊を解隊せられし由縁の地なり。
 宇佐宮託宣集に我宇佐宮より穂浪郡大分宮は我本宮なりとあり。本邦五所別宮第一に列せられ朝廷の尊崇 篤く、筥崎宮の元宮として由緒正しく、第四十五代聖武天皇神亀3年(726)御神託によって創建せられ、応仁天正の九州動乱にて御社殿は兵火に罹り焼失し後天正5年(1577)秋月種実公勅命に依り現在地に仮殿を建立、御神霊を勧請鎮座せられたる御社殿がその侭今日に至る。
 神殿裏山の小高い丘状の盛土は、全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地であり、往古旧社殿は小高い丘の前にありて跡地に礎石のみ残れり。       以下略          案内版より

この神社は神功皇后が応神天皇をお生みになり、三韓征伐の際に兵を解散させた場所と伝承がある地なのです。

更に三大八幡宮と云われる宇佐八幡宮の本宮 筥崎八幡宮の元宮であるとあります。

参道

狛犬

市杵島姫命

猿田彦大神

応神天皇産湯の井戸

御神木

手水舎

境内

総門 金剛力士と随神 狛犬です

拝殿

神紋は右三つ巴 千木は外削ぎ この日は御祈祷をうける方がいました。

古墳

嶽宮

本殿の後ろに古墳があり、この古墳は宮内庁の管轄で皇室推定古墳「仲哀天皇御陵」とされていて発掘は不可能だそうです。宇佐の本宮ならこの古墳の埋葬者は消去式で考えると応神天皇のような気がします。

境内社

大神宮

生目神社

大貞八幡宮薦神社

この神社は宇佐八幡宮に最も近くにある祖宮で通称は薦神社と呼ばれています。

神門

参道

参道の途中に伊勢宮と稲荷神社

手水舎

外宮

ここの拝殿は変わっていて社殿は外宮で池が内宮になります。

社紋
一つ巴。元来、巴紋は水に由来する紋で、宝器の勾玉、魂、命に関連する。宇佐神宮の三つ巴に対して、一つ巴であることから、宇佐の祖宮の一つと考えられている薦神社は、本来は宗像三比売大神ではなく、別の、あるいはその中の一人の比売大神(たとえば中津宮の湍津姫神)を祀っていたのではないかという説もある。

実はこの一つ巴を残したのは東征をした神武天皇(崇神天皇)で、この場所が彼にとって神聖な場所であったことが伺えます。

祭神
本殿 – 応神天皇(八幡大神)比咩大神(田心比売 湍津比売 市杵島姫命)息長帯比売命(神功皇后)

内宮

養老4年(720)反乱を起こした日向・大隈の隼人に対し、中央政府の征討軍は八幡神を奉じて鎮圧に向かいます。この時、神輿には三角池に自生する真薦で造った枕型の御験(神を表すもの)が乗せられていたのであります。

この後も薦枕は八幡神の御験として永く用いられます。薦枕は6年毎に新しく造られ、八幡神とかかわりの深い八ヶ社(田笛社・鷹居社・瀬社・泉社・乙咩社・大根川社・妻垣社・小山田社)を巡った後に、宇佐宮本殿に納められます。古い御験は下宮に、さらに下宮の古い御験は国東東海岸の奈多宮に納められ、海に流されます。

この八幡神御験の薦枕造替にかかわる一連の神事が宇佐宮の特殊神事といわれる行幸会と云われています。

このように真薦の自生する三角池は『託宣集』が「豊前国下毛郡野仲の勝境の林間の宝池は大菩薩御修行の昔、涌き出でしむる水なり」と記述しているように、八幡神にとって切っても切れない極めて重要な霊池でありました。

呉橋
朝廷からの勅使のみが使うことから別名勅使橋ともいいます。大貞八幡宮と宇佐八幡宮に存在します。

呉橋

中国風の橋。屋根や欄干のある反り橋か。 「須弥山の形及び-を南庭に構つけと令す/日本書紀 推古訓」  コトバンクより

大元神社

宇佐八幡宮に行かれると判りますが、本殿の正面に小窓が開けられています。

宇佐八幡宮から見えますが、車で行くと約一時間半ほどかかります。

上り口は数か所ありますが、徒歩で約一時間ほど歩くと社が見えてきました。

拝殿

拝殿に入ると正面に石の鳥居があり、その先が本殿になります。

奥宮

有刺鉄線が張られていて簡単に入ることはできません。これを乗り越えて入った人の話を聞くと三個の石が御神体であったそうです。

説明

御祭神
比賣大神三柱

当社は宇佐神宮の奥宮にあたるお宮
神代の昔に三柱の比賣大神が降臨された神山であるという。

~すなはち日神(ひのかみ)の生(あ)れませる三女神(みはしらのめがみ)を以ては筑紫洲(つくしのしま)に降(ふ)らしむ。因(より)て敎(をし)へ曰(まを)ししく。汝(いまし)三神(みはしらのかみ)、宜(よろ)しく道の中(みちのなか)に 降居(くだりま)して、天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて 天孫(あめみま)に 祭(いつ)かれよ。・・・(中略)・・・すなはち日神の生れまする三女神(みはしらのめがみ)を以(もち)ては。葦原中國(あしはらなかつくに)の宇佐嶋(うさしま)に使降居(つかひくだりゐ)さしむ。今(いま)、海の北の道の中に在(ゐま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(い)ふ。これ筑紫水沼君(つくしのみぬまのきみ)等(ら)の祭(いつ)く神これなり。~

「日本書紀」より

日本書紀にも市杵島姫命が宗像 湍津比売が宇佐 田心比売が筑紫に降臨したと記されています。

大元八坂神社

大元八坂神社
御祭
須佐之男命(すさのをのみこと)

馬城峯又厩峯也 大御神人王之昔 乘龍馬飛翔當山之坐 人皆不知之 其馬栖于茲之 故云个也 又神道之時 示現鹿毛 鴇毛 足斑馬等之坐故名也

~馬城峯(まきのみね)、また厩峯(うまやのみね)なり。大御神(おほみかみ)、人王(すめらみこと)の昔、龍馬に乘りて當(この)山を飛翔(とびか)け坐す。人は皆、これを知らず。その馬ここに栖(す)む。故、しか云ふなり。また、神道の時、鹿毛・鴇毛・足斑馬等示現し坐す故の名なり。~

(『八幡宇佐宮御託宣集 日本國御遊化部』より)

地名は馬城峯または厩峯といい応神天皇が馬を走らせたことからついた名前だそうです。

分析

 大分八幡宮は応神天皇ゆかりの神社であり、本殿後ろ宮内庁管轄皇室推定古墳は応神天皇を祀るものと考えられます。

 大貞八幡宮と大元神社に祀られている比売神は宗像大社の伝承からも同じ女神で崇神天皇の母親 鴨玉依姫こと田端姫のことであると推定されます。

しかし実際は目にしないと明確な回答は出来ないというのが正直な意見です。

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