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継体天皇

天日鉾

 506年に大変な暴君と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大君・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。

次に大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。)と相談し群臣は越前国三国にいた男大迹王が58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位した。

「日本書紀」より

継体天皇系図

日本書記系譜

 継体天皇の系図を巡っては父方が誉田別命(応神天皇)の五世孫 母方が垂仁天皇の子 誉都別命の七世孫振媛の子との記載がある。

日本書記父方系図
日本書記母方系図

『釈日本記』巻十三所引の「上宮記」逸文の系譜

一方「日本書紀」より成立が古く信憑性が高いと云われる『釈日本記』巻十三所引の「上宮記」には母方は同じだが父方には「凡牟都和希王 ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」と記されている。

この凡牟都和希王(ほむつわけおう)だが一般には誉田別(ほむたわけ)と発音が近いことから応神天皇のことと解釈されるが垂仁天皇の系図をみると次のような人物が存在することがわかる。

「上宮記」逸文の系譜

垂仁天皇の子に凡牟都和希王(ほむつわけおう)が存在している。

継体天皇の基盤は丹後から越前であることから祖先の基盤も同地であったことが想像される。

継体天皇を支えた豪族

 継体天皇の妻には尾張氏 三尾氏 坂田氏 息長氏 和邇氏などの有力豪族が名を連ねることから継体天皇の支持基盤が何処にあったかが読み取れる。

丹後から越前にかけて籠神社 気比神宮 足羽神社など息長氏の祖先 天日鉾と豊玉姫 玉依姫を祀る神社が集中している。 そこに仲哀天皇の皇子で武内宿禰に誅殺されたと伝わる忍熊王の一族を祀る神社が存在する。

劔神社(織田明神)

織田明神

祭神
素戔嗚尊 気比大神 忍熊王

越前織田に伝わる伝承

越前二宮・劔神社は福井県丹生郡越前町織田に所在し、織田盆地のほぼ中心に鎮座している。織田盆地は日本海に接する丹生山地の中部に位置し、丹南盆地など内陸部を結ぶ交通の 要所でもある。劔神社の古伝によれば、第7代の孝霊天皇の御代、伊部の郷の住民が座ヶ岳(標高390m)の峰に素戔嗚尊の神霊を祀ったと伝えられる。

 その後、第11代の垂仁天皇の御代に、伊部臣という郷民の長が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が鳥取川上宮で作らせたという御剣を、素戔嗚尊の御霊代(御神体) として奉斎し、「剣の大神」と称えて崇めたと伝えられる。伊部臣とは、第5代の孝昭天皇の第1皇子の天足彦国押人命(あめたらしひこおしひとのみこと)の子孫であるといわれ、伊部氏の長となり、代々伊部臣と称したようである。

 また、劔神社は仲哀天皇第2皇子である忍熊皇子が、座ヶ岳の剣大明神を現在の地に遷し祀ったことにちなむ。座ヶ岳は劔神社の元宮という位置づけで、両者には深い関係性が認め られる。嘉暦3年(1328)書写とされる『剣大明神縁起』では天利劔尊(忍熊皇子)、『織田剣大明神記録』では日本武尊、『越前国名蹟考』(江戸時代後期)では剣彦命(素戔嗚尊の 御子)と忍熊皇子など祭神は交錯しているが、忍熊にまつわる記述の占める割合は多い。古くから忍熊皇子が祭神として認識されていたようである。

忍熊王に劔を授ける素戔嗚

盞嗚大神様は忍熊王の夢枕に立ち『皇子努力せよ われ今汝に霊劔を授くべし、之を斎き奉らば賊徒は直に平定すべし。我は素盞嗚尊なり』と告げ劔を授けたと伝わる。ここでは素戔嗚と天日鉾は同一視されている。

縁起に記される天足彦国押人命とは和邇氏の祖先であり 忍熊王は神功皇后の実子では無く仲哀天皇の皇后 大中姫命の子であるが天日鉾の子孫で正当な後継者であると伝わることから神功皇后による誅殺は同族間の争いであったと考えられる。

大和政権との橋渡し

彼と大和政権との橋渡しをしたのは河内馬飼首荒籠という人物で河内の馬飼部の伴造氏族で政治的に有力な氏族では無かった。おそらく安羅に派遣された将軍「近江毛野臣」の従者であったと考えられる。彼は密かに王に使者をおくり、朝廷の大臣・大連らが男大迹王を大和へ迎え入れる本意を詳細に王に説明させた。

垂仁天皇

 『釈日本記』巻十三所引の「上宮記」にある父母の祖先である垂仁天皇とは第十一代天皇(活目入彦五十狭茅天皇)五大夫を集めて祭祀の振興を誓い、伊勢神宮、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった様々な文化の発祥に関わったとされ即位37年、大足彦尊を立太子。即位99年に140歳で崩御、『古事記』に153歳で崩御と記される。

神武東征は三つの話から構成されている。

  • 神武天皇と大幡主を中心とした日本列島巡行視察
  • 神武天皇に対する長髄彦の乱(倭国大乱)
  • 椎根津彦を中心とした九州王朝神霊東遷

椎根津彦

 崇神天皇の本当の名前は中臣鳥賊津 別名 神武天皇 賀茂別雷 中筒男で応神天皇の本当の父に当たる。子の垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)と記されるのは中臣鳥賊津の弟 倭国造 椎根津彦のことである。

籠神社 倭宿禰命 椎根津彦像

 神武(崇神)天皇の東征の時 速吸門(はやすいのと、はやすいど)で会った国津神で船路の先導者となる。、神武天皇に献策して兄磯城を挟み撃ちにより破る。また神武天皇の即位後に褒賞として倭国造に任命された。

分析

「高良玉垂宮神秘書」から九州の底筒男(開化天皇 阿部保蓮)と神功皇后が夫婦であったことが読み取れる。

また「高良玉垂宮神秘書」「止誉比咩神社本跡縁記」から中筒男(崇神天皇 中臣鳥賊津)の息子が応神天皇で東征を行い畿内に勢力を拡大したことが読み取れる。

応神の血統が途切れたので崇神天皇の弟 垂仁天皇(椎根津彦)の血統から後継者を選び新羅への影響力から息長 坂田 和邇氏と縁のある継体と皇后の尾張氏を結ぶことで擁立した。

推論

九州倭国 開化天皇 仁徳天皇~雄略天皇までが王として続き 分家の畿内倭国(日本)では崇神~武烈までが副王として並立していたと考えられる。

武烈天皇崩御の後 崇神 垂仁の血統の継体天皇を擁立しようと考える畿内豪族と開化 仁徳の血統であった磐井を擁立しようと考える豪族達が対立したことが継体天皇擁立の原因と考えられる。

なおこの二朝並列は「白村江の戦い」まで続いたと考えられる。

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