七支刀七支刀は、石上神宮に伝来した古代の鉄剣である。その由来は早くに忘れられ、神宮ではこれを「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼び、神田にその年はじめて苗を植える儀式に神を降ろす祭具として用いていたという。
七支刀の記録
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている(後述)。
七支刀の銘文
1874年(明治7年)に石上神宮大宮司となった菅政友は、水戸藩出身で「大日本史」編纂に参加した経歴のある歴史研究者でもあった。大宮司としてこの社宝をつぶさに観察する機会を得た菅は、刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見し、さらに剣の錆を落として、はじめてその銘文の解読を試みた。
太和(泰和)四年での解釈
太和(泰和)四年での解釈 浜田耕策泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥<判読>表太和(泰和)四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。
先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世<判読>裏先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。
泰始四年での解釈 宮崎市定泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥<解読>表泰始四年(468年)夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16日、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世<解読>裏先代以来未だ此(かく、七支刀)のごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生れながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。後世に伝示せんかな。
晋(西晋)の 泰始四年(268年)での解釈
晋(西晋)の 泰始四年(268年)での解釈
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥<判読>泰始四年(268年)夏の中月なる5月、最も夏なる日の16日、火徳の盛んな丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えた鋼の七支刀を造る。これを以て百兵の兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王(倭王)に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。
先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世<判読>先世以来、未だこのような刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝と倭に寄せることにした。それ故に、倭王が百済王に賜われた「旨」を元にこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀と共に倭と百済が伝え示されんことを。
いずれにせよ百濟から倭王に贈られたものであることには違いは無いようです。
こうやの宮
実はこの七支刀 石上神社で発見されるよりはるか以前にそれを伝える証拠が福岡県みやま市に伝わっていました。
太神鬼木(おおがおにき)部落の人達が先祖代々氏神として祀り続けている小さな祠がある。中に五体の御神体が安置されていて異国風の服を着て「七支刀」を持った男神と鏡を持った女神、カッパ像などがある。奈良県天理市で七支刀が発見される以前からこうやの宮に七支刀をを持つ神像を祀っていたことからマスコミで話題となり見学人で賑わったこともある。町指定有形民族文化財に指定されている。七支刀とは、現在奈良県天理市石上(いそのかみ)神社に国宝の鉄鉾で刀身の銘文から泰和4年(369)に百済の太子貴須から倭軍派兵によって高句麗を討つた御礼に倭国王旨に献上された刀である。「日本書紀」に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮・百済(くだら)から献上されたとしるす「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられている。七支刀は、いったん邪馬台国の発祥の地として有力視されているみやま市太神の「こうやの宮」(磯上物部神社)に安置され、大和朝廷が安定後、物部一族により天理市の石上神社に奉納されたものと一部の郷土史愛好家の中で推定されている。
みやま市の庶民信仰より
この宮の正式な名称は「磯上物部神社」というそうで、高良大社と深い関わりがあるそうです。
人形の並びはあとで社を造る際に変えたそうで、本来の並びは 1番目 赤い河童らしき神像 2番目 マントを着た男神像 3番目 鏡を持った女神(あるいは少年神) 4番目 七支刀を持った男神像 5番目 五七の桐の神紋の男神座像であったそうです。
高良玉垂神宮秘書との比較 分析
この人形は久留米の高良廟や田主丸の月讀神社でよく見かける九千坊(河童)で呉の人々を表現するのに使われます。
この人形だけは顔が判別出来ず、家紋もつぶれています。おそらく何かしらの意図があったのかもしれません。想像ですが表筒男かもしれません。
普通に考えるとこの人形は、神功皇后を表しているのかもしれません。
この人形の服装は明らかに異国の物であり、七支刀を持っていることから百濟からの使者かもしれません。
あきらかに他の像とは大きさが違います。高良玉垂神宮秘書と照合すると五七の桐は鸕鶿草葺不合尊こと住吉大神の紋で、 高良玉垂神宮秘書では底筒男が付けているはずの紋です。
この人形から判断すると七支刀はこの人に贈られたものと考えるのが自然と考えられます。
こうやの宮は地域の方が管理されていますので、おこしの際はおことわりしてから御訪問ください。
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