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八咫烏

賀茂建角身命

神武天皇の東征に伴い神武天皇を導いたと伝わる八咫烏の一族について分析してみたいと思います。

神武東征を見てみると出発点は二か所あり、その一か所目が塩土翁にアドバイスされた糸島の芥屋の大門と思われます。

神武天皇が船出したと伝わる芥屋の大門 苔牟須賣神を祀る若宮(桜谷)神社の近くに神武天皇に関係があるのではないかと思われる不思議な名前の神社があります。

糸島小烏神社

境内

手水鉢
狛犬
拝殿

由緒

大字久家香月の東山上にあり。
祭神神直日命,大直日命,八十枉津日命。
祭日九月十九日。
社説に淳和天皇天長四年丁未伊勢國より迎へ祀るといふ。(此社に祀るは警固三神なり。小烏神は健角身命にして福岡市薬院にも祀れり。小烏と警固神とは別神なるを俗誤りて小烏と云ふ。故に此社も同じく習うて祀れるなり。)

糸島郡誌より

ここに祀っているのは警固三神であるとあり、小烏神は健角身命で福岡市薬院に祀ってあるということのようです。

つまり後の時代に移し替えたということになります。

警固小烏神社

筑紫女学院のすぐ前の道を入ると住宅街の中に鳥居が見えてきます。

警固神社の由緒書きには「後世の慶長六年(一六〇一年)藩祖黒田長政公が福岡城築城の際、当社と薬院の地に御鎮座の小烏神社を城南下警固の山上に遷し合祀されました。」とあります。

一の鳥居

由緒

由緒書

小烏神社
御祭神 建角身神(八咫烏) (別称 小烏大明神)
当社のご祭神、建角身神(八咫烏)は『古事記』『日本書紀』によると神産霊神(神産巣日神)のお孫神で神徳高く、国土開拓のために産霊の威徳をもって、神武天皇ご東征の折には先導を務めた。皇軍が熊野山中で荒ぶる神々に苦戦を強いられると、建角身神は八咫烏(やたがらす)に化身し、賊軍の説得に努め、土着の神々を服属させると、ついには皇軍を大和国へと導き、大和平定に多大な功績をたてられた。
また『山城国風土記逸文』によると、加茂建角身神は大和国の葛木山の峰から、山城国の加茂に移り、古代京都を拓かれるとともに、丹波国の伊可古夜姫を娶り玉依姫をもうけられた。そもそも建角身神の『建』とは、「荒々しい、勇猛な」神であることを意味している。古代から京都の地の守護神として、永く今日まで下加茂神社の西殿に祀られている。(これら加茂建角身神は小烏神社のご祭神とご同神である。)

御神徳
建角身神は古来より、国家国民の安穏をご祈願する土地の守護神であり、厄除け、家内安全など人々の暮らしを守る神として、また農耕をひろめ民生の安定に努められたことにより五穀豊穣、殖産興業、商売繁盛など、そして御子神玉依姫を儲けられたことから、縁結び、子育ての神として今日まで篤く信仰されている。一方で、八咫烏(やたがらす)としてのご功績により、導きの神として方除け、交通・旅行安全など多方面に御神徳を顕わしておられる。

御由緒
当社のご創建については、ご祭神・建角身神は日向(ひむか・宮崎)の地に天降られたのち、神代の世に、今の警固の丘(那珂郡薬院字浦に鎮座の祠で、下警固村の産土神であったと伝えられている地)付近に出現されたか、後の世に他地より勧請(神様の分霊を他地から移し祀る)され、祀られたのかは不明。一方では建角身神は主に畿内の神社(熊野那智大社、八咫烏神社、下加茂神社など)に多く祀られており、なぜ神話伝説の地から離れた筑紫の警固の丘に祀られているのかはナゾである。ただ『小烏大明神』『小烏神社』そして地元「古小烏」の地名に見られる「烏」の名称は、建角身神の化身・八咫烏(やたがらす)に由来すると考えられる。

現存する資料には、江戸期に作られた「博多往古図」(鎌倉室町期の「博多古地図」)に、当時の住吉大明神や筥崎八幡宮とともに『小烏大明神』として地図に明記されている。当時、地元では『小烏大明神』と尊崇され、人々に信仰されていたことが伺われる。また江戸期の「古文書」には「・・・・・・神秀新に照り栄え給ひ、建国創業の功神として、又地方開拓の産霊祖神として神徳彌栄に、神祐彌増に、古社の尊厳一入高く上下の信仰日に月に篤きを加ふ・・・・・・」と記されている。

当社は古来より筑紫の警固の丘に鎮座する由緒ある古社である。

明治五年十一月三日には、村社(旧社格)に指定された。当時の薬院村には、古小烏、南薬院、汐入町、原の町、上出口町、中出口町、岩戸町、中庄町、小森町が含まれる。戦後、宗教法人『小烏神社』として今日に至る。

社殿
社殿は、本殿、渡殿、拝殿の三殿からなり、慶長十三年頃の建築様式を今に伝えている。
境内社
稲荷神社(倉稲魂神) 天満宮(菅原道真)~以下略~
境内社
稲荷神社(倉稲魂神) 天満宮(菅原道真)

かなり長い文章ですがここが八咫烏はここの産土神であり本宮ということを説明しています。

狛犬

拝殿 本殿

全景
虹梁
拝殿
本殿
本殿虹梁

おそらくこの三枚の葉っぱはナギの葉で熊野のシンボル的な葉です。三枚は奇数で陽 つまり太陽を表すものと考えられます。

千木は外削ぎ

あとは外観からは虹梁の模様が気になるぐらいです。

摂社

稲荷神社(倉稲魂神)
天満宮(菅原道真)

ここで判ったことは八咫烏は日向の地(多分糸島の日向)に降臨して福岡城の警固所に居住し黒田長政によりこの地に更に移転したということです。

全景

うきは賀茂神社

更に別の場所にも降臨地と伝わる場所があります。

神紋
神橋

由緒

由緒書

祭神
神日本磐余彦尊(神武天皇) 賀茂別雷命 賀茂速建角身尊 玉依姫命
相殿
懐良親王 天神地神 赤松大神
御由緒
当社は太古よりの霊地で賀茂大神の御神蹟に旧記に述べられ、神武天皇御東幸の聖跡と伝えられ八咫烏に化した賀茂大神の御先導により大和に進まれたとあります。
正和元年征夷大将軍懐良親王九州鎮護の為 郡主大蔵永武等に命じ当社の由来に則り賀茂神社下上大神を遷祀せしめられました。以下略 案内版より

境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。

賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。

熊懐氏参照

この神社の不思議なところは、賀茂大神が八咫烏になってここに初めて現れたと書き残しているにも係らず初代宮司が賀茂氏ではなく武内宿禰の長男羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)の子孫であるところにあります。

賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。
 神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、綏靖天皇に召しだされた。妻は神伊可古夜日女で、氷上町の神野社に祭られている。彼女との間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に祀られ、その子賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られている。

賀茂始祖伝より

賀茂建角身命が日向国の曾の峰(そのたけ)に降臨し、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いた後、奈良の葛木を経て、山城国久我から鴨川をさかのぼって、現在の上賀茂神社がある愛宕郡の賀茂に移住してきたといわれる。 妻 伊可古夜日売(イカコヤヒメ)との間には、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日売(タマヨリヒメ)が授けられた。玉依日子は、後に、賀茂県主となる
 玉依日売は、瀬見の小川で遊んでいたところに丹塗りの矢が流れてきたを拾い、床の間に飾っていたところ、懐妊したといわれる
 生まれた男の子が成人した日、賀茂建角身命が、盛大な宴会を開き、「父親と思う者に盃を飲ませよ」と言ったところ、盃を天に向けて、天上に昇っていったといわれる。賀茂建角身命は、その子を「賀茂別雷大神」と名付けた。 丹塗りの矢は、火雷神(ホノイカズチノカミ)だったといわれる。

山城国風土記逸文

拝殿 本殿

拝殿
恵方盤
葵紋

神紋は上賀茂神社のものでも下鴨神社のものでもない葵紋 これも意図的にわからなくしているようです。

以下の事から判断するとこの八咫烏は武内宿禰 神功皇后の時代  上鴨神社の賀茂別雷命のことであり神武天皇とは崇神天皇のことで宇佐周りで東征したということがわかります。

摂社

境内社
境内社
磐座
三王宮

この三王宮は本殿 拝殿より一段高い所にあり格上もしくは元の祭神であったと考えられます。
三王とは大山咋のことですから上賀茂からみると父親にあたります。

今回は下鴨神社の祭神賀茂速建角身尊(八咫烏)について分析していますのでそれに関連する神社をご紹介しましょう。

三島神社

一ノ鳥居は三島神社
ニノ鳥居は大山祇神神社

参道

手水舎
狛犬

拝殿 本殿

拝殿

千木は外削ぎですが神紋ご覧になると三が模様になっていることに気がつきます。普通の三島神社と違います。

由緒

三島神社
祭神
大山祇神 木花開耶姫神 溝祗姫神
由緒
大宰府管内締めに菰田三島宮とありその棟木札(神殿の屋根の木)の銘文には三島明神明暦元年庚寅十二月三日(西暦九九〇年)筑前国穂波郡金丸庄菰田村に造り奉る寄贈施主平重道とあります。当社は和妙抄(地名表)という本には穂波郡菰田村にあって金丸庄の總鎮守とあります。
お祭りしてある大山祇神は西暦年間(今から約九百九十年以上前)に鎮座された古いお宮であります。以下略 案内版より

摂社

木花開耶姫
恵比須 事代主
猿田彦大神 石塔郡

分析

天照大神が、海守、山守の職をおくや、月読尊は、「総山守頭」に就かれる(これだと、月読命が、大山祇神となる)。葦津比売を娶り、八神の御子がある。(月読の命の)長子が、白玉彦という。諱(いみな)を寒川彦という

天照大神が、寒川比古に勅して、天下四方の国民は『今なお、多く穴居しにけり、吾れ甚だこれを憂う。次々に家屋を建て、以って、居住せしむべし」と詔す

弟神七柱を連れて山々の木を切り、家作りの事を司る。これにて、四方の国民もようやく、家屋に居住するに到る。大神は大いに喜ばれて、諱を正哉山祇の命を給う。世に大山津見命、これなり

 親子で、大山祇神と、大山津見神になった。引き継いだのかも知れないが、通常は、同神とされている。宮下文書 参照

大山祇神は西に進み、尋ねて南島に至り、ニニギ命の神后(木花咲夜比売)に会い、大いに喜ばれた。その内、来る途中で亡くなられた婦神を追討する余り、病にかかり、程なく、神さりましぬ。まします地を、伊世(伊予)という。此の地に葬る。諱を寒川比古命という。後に、大山祇命とオクリナしたもう

大三島の大山祇神社は大山祇神一柱ですが、静岡県の三島大社は大山祇 事代主 こちらは大山祇神 木花開耶姫 溝杭姫とあります。これは同じ三島でも渡しの神こと摂津の三島鴨神社の祭神 三嶋湟咋(みしまのみぞくい)神別名八咫烏のことを言っているようです。

三島鴨神社 画像はお借りしました。

三嶋湟咋(みしまのみぞくい)神は別名 八咫烏 賀茂建角身命といいます。

では八咫烏 賀茂建角身命の系図を見てみましょう。

八咫烏系図

これに山幸の系図を並べて比べると

山幸系図

名前は違いますが全く同じ系図になります。八咫烏系図では 賀茂建角の所が山幸系図では豊玉姫 玉依姫の父 豊玉彦になっています。また木花開弥姫の所は伊可古屋姫に変わっています。 大山祇神と山幸の一族の接点は瓊瓊杵尊が娘婿ですので豊玉彦が瓊瓊杵尊と考えてれば全ておさまります。

つまり初代八咫烏伊都国もしくは博多の警固に降臨した豊玉彦二代目八咫烏は事代主 三代目八咫烏は賀茂別雷命という結論になるのかもしれません。

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