八女の奥深く矢部川の上流にその神社はひっそりと建っています。
目印は樹齢600年と伝わる杉です。
参道
この窟から落ちる雫は媛しずくといわれ美肌に効果があるそうです。
由緒
遠く弥生の世にかけて、筑紫の国一円を巡幸の大足彦命(のちの景行天皇)
は水沼の県猿・大海に遙かに青くけむる山脈を指呼、あの一帯を統べ、天地を祀る者を問われた。大海はその名を八女津媛と称し、常に山中に居すことを奏上。経緯は「日本書紀」に記されている。ここにその女神を祭ったのが八女津媛神社である。社伝によれば創建は創建は養老三年三月(西暦719年)~以下略~
「日本書紀」完成の一年前のことです。
拝殿
八女津媛象
作家の黒岩重吾氏は この八女津媛が卑弥呼であると思っていたようです
それを御紹介します
八女津媛は卑弥呼か
八女津媛:像古代史小説の作家黒岩重吾先生(故人)は生前の平成四年、NHKのテレビ「歴史発見」で『三世紀前半期の邪馬台国の女王、卑弥呼は実は八女津媛であろう』と明言され、大きな反響がありました。私の記憶では黒岩先生はテレビ司会者を前に「八女津媛」の「八女」の字の意味を強調されました。女王卑弥呼の存在は「魏志倭人伝」(以下「倭人伝」)に記録されています。「倭人伝」とは三世紀ごろ中国の官史が書いたもので、そのころの倭国(日本)の政治、社会、産物、習俗などを約二千字で紹介しています。卑弥呼の生活の一部も記述しています。意訳して抜き書きします。
「卑弥呼は年配の女性だが夫はなく男弟が政治を助けている。王となってからの彼女に会った者は少なく、婢(召使い女)千人をみずから侍らせている…」
黒岩先生は右記の「婢千人」と「八女」は同じ意味ではないか、と次のように語られました。
「〝八女〟の〝八〟は単なる数ではなく〝数が多い〟の意味があります。例えば〝八百屋〝や〝嘘八百〟など。だから〝八女〟は〝多数の女性〟という表現と同じで〝婢千人〟と合致するのです」と。
黒岩先生は晩年八女市にも度々来訪され、八女津媛にまつわる講演もありました。しかし、平成十五年三月七日、七十九歳で逝去されました。私が驚いたことは、先生の文学館「黒岩重吾の世界」室(以下「黒岩室」)が平成十七年、母校の奈良県宇陀市、県立大宇陀高校内に開館していることでした。県立校内に卒業生の文学館とは奇抜なアイデアです。去る日、高校に電話しました。担当の先生は『黒岩室は図書館の一室を当てており、寄贈された千余冊の著書と歴史書を展示、在校生の利用は多い。一般人の利用は土、日曜の午前九時半から午後三時半までです』とのことでした。
前出の「倭人伝」には卑弥呼が魏王へ貢物を献上した記録があります。一こまを意訳して引きます。
「景初三年(二三九年)倭王卑弥呼の家臣が男生口四人、女生口六人(生口は奴隷のこと)と班布二匹二丈を奉って到来した」
織物の「班布」とはどんな織物だったのでしょうか。現物が中国にも残っていないので推理する以外にありません。班布の正体については諸説があります。しかし、十数年前に福岡市で開講された「古代織物講座」で、講師の京都芸術短大教授、小谷次男先生は『班布は絣織りの布と解釈しています』と明言されました。古代絣となれば八女地方でも生産していた可能性があり、「卑弥呼の実体は八女津媛」の黒岩重吾説に一段と重みが加わります。私の夢は尽きません。
八女市ホームページより
近隣施設
近くには廃校を利用した杣のふるさと文化館が
こちらで和紅茶を頂きました。えぐみが無く日本茶のような紅茶です。
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