「宋書」に記される 倭の五王 賛 珍 済 輿 武の武に当たる天皇が雄略天皇でおよそ一致しますが 賛に当たる天皇が応神天皇か仁徳天皇かでわかれるには応神天皇の出生が大きく関わっているようです。
宇美八幡宮
由緒
祭神 応神天皇 神功皇后 玉依姫命 住吉三柱大神 伊弉諾尊
社伝「伝子孫書」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に応神天皇を産んだとされる当地に
敏達天皇3年に応神天皇を祀った事が始まり。「宇美」の地名も「産み」に由来するものであるとされている。
境内
衣掛けの森
樹高約25m、幹周り約20m、
枝張り約24m
応神天皇御降誕に関する霊樹で、そのおり産衣を掛けたのでこの名をつけたと伝えられています。
国指定天然記念物(大正13年指定)
湯蓋の森
樹高約30m、幹周り約15m、
枝張り約28m応神天皇御降誕に関する霊樹の一つで、枝葉が繁って湯船の上に蓋のように被さったような格好になっているので、この名をつけたと伝えられています。
国指定天然記念物(大正13年指定)
子安【こやす】の石
神功皇后が応神天皇をすごい安産でお産みになったということに起因するのだろうが、ここから石を預かって帰るとご利益があり、めでたく出産となればその石とともに別の石に生まれたお子様の住所、氏名、生年月日を書いて納めるという慣わしである。
拝殿
拝殿 拝殿
赤司八幡宮由緒書
一般には宇美八幡宮が出生地と伝わりますが、高良大社の下宮と伝わる赤司八幡宮に伝わる「築後圀御井町郡惣廟 赤司八幡神社御由緒」には
神功皇后は「筑紫中津宮」の蚊田の地(蚊田宮・「応神記」)において応神天皇を御出産。その後、宇美八幡宮で御誕生祝をなされたといわれます。また、神功皇后は妹の豊比垟命を「筑紫中津宮」に留め、西海の鎮護にあたらせました。このことが当社を「豊比咩神社」とよぶ要因と思われ、社名の変更は平安時代初期と考えられます。 赤司八幡宮参照
つまり応神天皇は赤司八幡宮で出生したことが記されています。
更に父親については表向きは仲哀天皇と記されていますが、摂津の住吉大社の「住吉大社神代記」には「(神功)皇后輿大神密事有」と記されています。 住吉大社参照
高良玉垂神宮秘書
しかし「高良玉垂宮神秘書」には「男月神ノ垂迹底筒男ノ尊 皇后と夫婦となり給う 嫡男の垂迹底筒男は皇后の御妹 豊姫と夫婦となり給う。男月神ノ垂迹底筒男 物部(阿部)保蓮と申したまう。別名 藤大臣 四人の皇子は仲哀天皇の皇子なり、五人は藤大臣の子 合わせて九躰皇子なり。」子供の名前を「斯礼賀志命(しれがしのみこと) 朝日豊盛命(あさひとよもりのいみこと) 暮日豊盛命(くれひとよもりのみこと)
渕志命(ふちしのみこと) 谿志命(たにしのみこと) 那男美命(なおみのみこと)
坂本命(さかもとのみこと) 安志奇命(あしきのみこと) 安楽応宝秘命(あらおほびのみこと)」と記しています。 高良玉垂宮神秘書参照
このうち一人は仁徳天皇のことともいわれています。
分析
つまり応神天皇は表筒男(武内宿禰)か底筒男(阿部連保)の息子であり仁徳天皇と同時代の天皇であった可能性が否定できません。
宇佐家の古伝によると、大神比義の心眼に童子の姿で幻じて、「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、応神天皇の神霊ではなく、神功皇后と武内宿禰との不義密通によって生まれ、四歳にして早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊である。
宇佐公康氏の著書『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』
本当の応神天皇は神武天皇の皇孫である。そのいわれは、神武天皇が東遷の途上、筑紫国菟狭の一柱騰宮に四年のあいだ滞在し、菟狭津彦命の妹、その実は妻の菟狭津媛命に娶って生まれた宇佐津臣命またの名は宇佐稚家(うさのわかや)が、越智宿禰(おちのすくね)の女常世織姫世織姫命(とこよおりひめのみこと)に娶って生まれた宇佐押人で、菟狭族から出て西日本を統一してから、中央に進出して古代日本の国家が成立したと伝えられている。
この神武天皇が本当は崇神天皇で「高良玉垂宮神秘書」に記されている中筒男(中臣烏賊津 (なかとみのいかつ))のことであることはいずれ御説明致します。
宇佐八幡宮の摂社 阿良礼神社の伝承には 神が三歳の童子と化して竹の葉の上に顕れ、『辛国城(カラクニノキ)にはじめて八流の幡を天降し、吾は日本の神となれり』とあり早逝したことを暗示しています。」
更に仁徳天皇の高津宮は筑紫 摂津の二か所に存在することから早逝した応神天皇の跡継ぎとして仁徳天皇が養子として入った可能性も否定できません。 高津宮参照
摂津 高津宮 筑紫 高津宮
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