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佃収説(倭国と日本国)

福岡県

倭人の誕生

倭人の誕生を知るためにはY染色体の分析が必要です。
ミトコンドリアの遺伝子は、女系遺伝子でこれをたどれば最古の母にたどり着きY染色体遺伝子は、男系遺伝子でこれをたどれば最古の父にたどり着くそうです。現在の日本人の八割近くがこのY染色体遺伝子を保有しています。

表1の「O2b」は「日本、朝鮮、満州」でほぼ同じ高い数値であることがわかります。※ここから導き出せる答えは、「日本、朝鮮、満州」は同族であるといえます。9,000千年前頃 「満州」が分かれ 6,700年~4,700年前頃に「朝鮮」が分かれました。つまり6,700年~4,700年前頃に倭人は中国東北地方(医巫図閭)に「辰」を建国したと考えられます。

図2 Y染色体系統遺伝子

この図から倭と朝鮮の分かれた様子がわかります。

表1は環日本海域の系統

その中の一部は渤海沿岸で「D2」系統が誕生しました。「O2b」「C1」「D2」系統が日本列島人=日本人であるといえます。この後、倭人は渤海から呉地方に移動をしました。

安冕辰沅氏(天氏)

呉の大伯については、「魏略」に記載がある。「魏略」は三世紀(弥生時代後期)の北部九州の倭人について記述している。周お太王に「大拍・仲雍・李歴」の三人の子がいた。太王は「李歴」を王にしたいと思った。それを悟った兄二人は「文身(入墨)断髪」し、荊蛮の地へ行った。この場所が呉である。李歴は紀元前1122年に殷を滅ぼし「周王朝」を樹立した。

論衡

倭人を記した最古の文献は「論衡」である。「論衡」 周時、天下太平。越裳献白雉、倭人貢鬯草

(訳)周の時、天下は太平 越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ周王の在位は、紀元前年1115年~紀元前1106年のことである。倭人はこの時 呉地方にいた。

契丹古伝

「契丹古伝」はラマ寺院にあった古文書を日露戦争の時、濱名寛祐氏が写し取り持ち帰ったものである。ここに「安冕辰沅氏(天氏)」「卑弥辰沅氏」の記載がある。

蓋辰者古国上代悠遠也 伝日神祖之後 有 辰沅獏率氏。本興東表阿斯牟須氏為一。辰云謨率氏有子、伯之裔為日馬辰云氏 叔之裔為千霊辰云氏。千霊岐為千来、二千隔海而望千来。又分為高令云~略~撃漢。(訳)「契丹古伝」 蓋し辰は古い国であり、上代より悠遠なり。伝えて曰く、神祖の後 辰沅獏率氏本表の阿斬牟須氏と同一なり。辰沅獏率氏に子あり 伯の後裔を日馬辰沅氏といい甥の後裔を千霊辰沅氏という 千霊は岐(わか)れて千来となり二千里海を隔てて而して千来を見ることが出来る。又分かれて高令となるという。然るに今はそれを考えることができない。その最も顕著なる者が安冕辰沅氏である。本(もと)東表牟須氏の出であり殷と婚をなす。国を賁彌辰沅氏に譲る 賁彌氏が立って未だ日が立たないうちに漢が攻めてきて、まさにせまりその先朔巫達に入る これを撃退す。
准委氏は嶺東に藩(かきね)をつくり辰の守郭となる。藩耶は又亜府閭に兵を観せ、以て漢を掣(ひきとど)む「辰は古い国であり 上代より悠遠なり」とある。古代中国に「辰」が存在していた。

辰の「辰沅獏率氏」は「東表」の「安冕辰沅氏」と同一であるという。

「その最も顕著なる者が安冕辰沅氏である。」「安冕辰沅氏」は「倭人(天氏)」であり、北部九州に渡来する「渡来系弥生人」である。

「賁彌辰沅氏」は「倭人(卑弥氏)」であり「卑弥呼」の氏族である。「安冕辰沅氏(天氏)」も「賁彌辰沅氏(卑弥氏)」も「辰」であり、その中の「倭人」である。

ここにある「東夷」とは、中国から東の表(おもて)の意味で「春秋東氏伝」に「東夷」の説明がある。

東夷

これによると「魯国は東夷にある。東夷は孔子の出た国で、都は曲阜とある。」

紀元前1122年 殷は周の武王に滅ぼされる。

「史記」宋微子世家武王既克殷 訪問箕子。武王曰。於乎維天定下民相和其居。我不知其常論所序 箕子対曰
(訳)武王は殷に勝ち、箕子を訪問する。武王曰く「ああ、天は陰で定めを維持している。下民は相和しこれに居す。我は其の常所序(常道の秩序)を知らない。箕子こたえて曰く 箕子は「鴻範九等(こうはんきゅうとう)」を教える。  武王は尊敬する箕子を朝鮮に封じる。

同じ時代に殷の丞相 箕子を朝鮮に封じる 

更に「契丹古伝」には、蓋辰者古国上代悠遠也(中略)其最顕者安冕辰沅氏。本出東表牟須氏興殷為
(訳)蓋し辰は古い国であり、上代より悠遠なり。その最も顕著な者が安冕辰沅氏(天氏)である。本東表の牟須氏の出であり殷(朝鮮)と婚を為す。

この検証は「山東省臨湽の人骨」から立証された。

賁彌辰沅氏 (卑弥氏)

松野連:出自呉王夫差也
(訳)呉王夫差より出るなり これが倭人 賁彌辰沅氏(卑弥氏)である。

名は「姫氏」である。松野連に「熊鹿文」がいるこれには注記があり(姓姫子、称卑弥子)つまり姫氏の総称が卑弥子ということのようである。

「賁彌辰沅氏(卑弥氏)」は「安冕辰沅氏(天氏)」と同様 「呉」から「日本列島」に渡来している。

紀元前473年 「呉越の戦」いで呉は滅びる。この時「賁彌辰沅氏(卑弥氏)」「安冕辰沅氏(天氏)」は逃げ黄河流域に「倭国」を建国する。

倭を名乗ったのは「賁彌辰沅氏(卑弥氏)」である。

山海経

海内北経蓋国在鉅燕南倭北倭属燕(訳)蓋国は鉅燕の南、倭国の北に在り 倭は燕に属す

水経注

白狼水又東北逕昌黎縣故城北 地理志曰 交黎也。東部都尉治。(中略)高平川水注之。水出西北平川。東流逕倭城北。
(訳)白狼水は又東北に流れ 昌黎縣の故郷西に至る。地理志に曰う 交黎なり。東部都尉治である。(中略) 高平川の水はこれに注ぐ 水は西の北平川に出る。東流して倭城の北に至る。

紀元前5世紀の倭の位置

契丹古伝

其最顕者為安冕辰沅氏。本出東表牟須氏、興殷為婚。譲国於賁彌辰沅氏。貰彌氏立未日、漢寇方薄其先入朔巫達、撃退也
(訳)その最も顕著なるものが安冕辰沅氏である。本東表の牟須氏の出であり、殷と婚を為す。国を賁彌辰沅氏に譲る。賁彌氏が立って日が立たないうちに漢が攻めてきたが、その先朔巫達に入り撃退した。 

  賁彌辰沅氏に国を譲った 安冕辰沅氏 「天氏」は蓬莱国(高天原)を目指すことになる。

  高天原

「紀元前200年」頃の朝鮮半島は、すでに本格的な稲作が始まっている。

■「高天原」の建国は「紀元前200年」頃である。
■「高天原」は朝鮮半島南部の「泗川市」である。
■「国狭槌尊」による建国である。
■「国常立尊」は父母が死去した後に高天原にやってくる。
■「国常立尊」は「高天原の西方と北方」「国狭槌尊」は「南方と東方」を治める。
■「高天原の建国」は「逃亡」である。「秦」や「漢」の圧力によるものである。
「宮下文書」

天照大神の即位

天照大神は諱をはじめ大市毘女といひ、後大日留女尊といふ、伊弉諾・伊弉冉二柱の皇女にまします。~略~国を豊阿始原瑞穂国と名付け給ひき。「宮下文書」

高天原

第二代 天之穂耳尊忍

 高天原の系図

   二代目 「天之忍穂耳尊」とする。天之忍穂耳尊は幼名を日吉毘古、諱を豊武毘古といふ。国常立尊の皇子豊斟淳尊の嫡孫にましまして、真心諱阿和武男命の御子にまします。阿和武男命、子なきを憂い~略~諱を豊武毘古と改め賜う、是に至って阿祖山大神官なる宮守において、三品の大御宝を捧げて、大御位をうけましき「宮下文書」
(訳)天之忍穂耳尊が生まれると父はすぐ死去した。天照大神が引き取り養育した(養子にした)天照大神は日嗣を天之忍穂耳尊に譲る 天之忍穂耳尊は豊阿始原瑞穂国の二代目となる。

天孫降臨

■最初に「天穂日命」を遣わすが、三年過ぎても報告がない
■次にその子大背飯三熊之大人(武三熊之大人)を遣わすがやはり復湊が無い
■次に天稚彦を遣わすがやはり復命がない
■遂に、高皇産霊尊は瓊瓊杵尊を降(あまくだり)まさしむ

「若し然らば、早速、我が子を降さん」と勅(みことのり)し。まさに降ろうとしていた時に皇孫すでに生(あ)れき。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊と言う。そこで天照大神は言葉を付け加えて、「此の皇孫を以ちて代えて降(あまくだ)らさんと欲(おも)う」と言った、とある。

天孫降臨の地

■日向の襲の高千穂に天降りましぬ。   本文
■筑紫の日向の高千穂の槵觸(くしふる)の峯に至る。   一書第一
■日向の槵日(くしひ)の高千穂の峯に降り至る。     一書第二
■日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天の浮橋に到る。   一書第四
■降り到る処を日向の襲の高千穂の添山(そほりやま)の峯という。 一書第六「日本書紀」

此の国は韓国に向かい、笠沙の御前(みさき)の真来(まき)通り、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此の地は甚だ吉(よき)地「古事記」

「韓国に向かい。」とあることから韓国の対岸 「朝日の直刺す国」とは、朝日が出ると直ちに刺すという意味で東側に朝日をさえぎる高い山がなく、平野が広がる土地で、しかも久士布流多気(くしふる岳)とある近くに山がある。そして筑紫の日向とある。

 すると筑紫が条件として合う、その中で条件を満たす場所は福岡平野の中で福岡市西区の飯盛山付近と推定される。

 天孫降臨の地

高天原の危機

一日(ある日)、西国より豊玉武毘古命馳せ来たり奏すらく、西上の大陸より、大軍附地見島に攻め来たりと。乃ち尊は高天原の大御宮に神后初め諸々の天津神国津神、八百萬を神集に集へ~中略~日夜重ねること五三日に西国に着きましぬ。

その後敵と戦うが大敗、その後撃退したが、第四代「日子火火出見尊」の時代に外寇があり高天原から移住に繋がったと「宮下文書」は記している。

倭人の移動と年代

倭人の移住

紀元前二世紀前後から福岡 佐賀 甕棺墓が一斉に増えている。 これは、万単位の移住が行われたと判断すべきである。

甕棺墓

アジアでは、まず朝鮮半島と中国に現れている。ほとんどが乳幼児のものであり、成人のものは韓国の西南部と中国西部のみに分布する。

甕棺墓

移住

度重なる外寇により「神都」を「筑紫」に移すにあたり、「日子火火出見尊」は「阿祖男命」に譲位する。その結果「神都を附地見島(筑紫)に還す」ことをきめる。

乃ち尊は宮守の宮の御神殿に於いて、大譲位を阿祖男命に譲位、諱を日子鸕鶿草葺不合尊と改め賜い、以て神都を附地見島(筑紫)に還させ給ひき。「宮下文書」

「宮下文書」には「日子火火出見尊」は高天原に留まったとあります。

今や、天つ神・国つ神・八百萬の決議に基づき、将を神都を附地見島(筑紫)還さむと給う。(中略)時に軍勢日に加わり、凡そ十萬餘神称す。則ち、軍勢を二手に分かち、附地見島、南の水門より攻むる大将は、元帥火照須命、副帥武甕槌命 稚武王命  軍勢五萬餘とし、他の一軍は附地見島、東の水門より攻むる大将は、元帥火須勢理命、副帥経津主 建御名方命 軍勢五萬餘とす。(中略)乃ち水軍は南水門より上陸し、賊の大群と戦い、憤撃轉闘六百五十日にして、是より旧高天原を天都といい、新都を神都という。「宮下文書」

侵略地

つまり「天孫降臨」とは「高天原」から「北部九州」へ「侵略 」である。

日子鸕鶿草葺不合尊の移住

「附地見島(筑前~肥前南部)を征伐したので神皇「日子鸕鶿草葺不合尊」が移住する。

乃ち神皇は、左右大神初め、天つ神  国つ神を支り加えて、高天原より附地見島の新宮に天降りましまし給う。(中略)而してその新に都を築きしに困り、附地見島を筑市(ちくし)島(後世 作筑紫)と改め給ひ、御舟の初めてつきましし水門を津久始(つくし)初古崎(はこざき)となづける。

高天原を紀元前200年と換算すると移住は紀元前140年頃と考えられる。

安冕辰沅氏(天氏)遺跡

吉武高木遺跡

吉武高木遺跡の特定集団墓は、弥生時代中期前半の青銅器や装身具が出土し、奴国首長墓とされる須玖岡本遺跡D地点や伊都国首長墓とされる三雲南小路遺跡(ともに弥生中期後半)に先立つ「最古の王墓」と呼ばれる。

3号木棺墓は、規模は2号より小さいが、副葬品に銅鏡、銅製武器、ヒスイ製勾玉を含み。いわゆる「三種の神器」との関連で注目される。

火照須尊は高天原の金山の陵より吾父母すなわち天孫二柱 御霊・剣・鏡を日向の可愛の山裾の長井宮に還し祀り奉りき。後 霊・剣・鏡をその宮の西の可愛の山稜に葬りぬ。

長井宮

「火照須尊」の吾父母とは「瓊瓊杵尊と木花策弥姫」であり「御霊・剣・鏡を日向の可愛の山裾の長井宮に還し祀り奉りき。後 霊・剣・鏡をその宮の西の可愛の山稜に葬りぬ。」とあり大形建物の真西には「3号木棺墓」がありそこに霊・剣・鏡が葬られていたことが「宮下文書」の記載と一致する。

須玖遺跡

石橋新次氏は「北部九州の古代史」の中で「弥生時代を代表する土器に須玖式土器がある。福岡平野から唐津平野までの玄界灘沿岸地域、並びに朝倉から佐賀平野へと連なる、須玖式文化圏である。遠賀川以西系須玖式土器は①日常生活用土器②埋葬用の成人用大型甕棺③祭祀用土器の三種がある。

「須玖式土器」は「神皇」の居る「須玖岡本遺跡」を中心とした土器である。

更に春日丘陵は那賀川で結ばれ、伊都国は海へ出る出口を「神皇」の居る「須玖岡本遺跡」を抑えている。

須玖岡本遺跡王墓

「宮下文書」通りならここは「日子鸕鶿草葺不合尊」の墓ということになる。

吉野ケ里遺跡

弥生時代の中期、紀元前1世紀ごろに埋葬された墳丘墓。
南北約40m、東西約27m以上の長方形の墳丘と推定され、現状の高さは2.5m。
14基の大型の甕棺が発見され、人骨のほかに銅剣、管玉、絹などが出土。

この甕棺の被葬者を王族墓の「王の中の王」とする見解が強い

「宮下文書」の「南軍」の大将のその後について次のように記す。

火須勢理命は、本島諸々の萬の諸務総司令神となりませるや、不二山高天原に帰り、小室の家基都の宮に止まりまして、元宮阿祖山大神官なる宮守の宮に於いて、神祖神宗を初め八百萬の大御神を守護し奉りき。「宮下文書」

「元帥火須勢理命」は高天原に帰っている。したがって吉野ケ里の墳丘墓の中央にある甕棺墓は「副帥経津主」の墓であろう。

吉野ケ里遺跡 王墓

石橋新次氏は「北部九州の古代史」の中で弥生中期を代表する土器に須玖式土器がある~略~中国東北部と共通するのが九州北部に見られるとしている。
 更に「中国北東部で製作されていた鋳造鉄斧の製作技法も伝えられた。」としている。以後伊都国に連続して「王墓」が造られる。
 三雲南小路遺跡(弥生時代中期後半) 井原鑓溝遺跡(弥生時代後期初頭) 平原遺跡(弥生時代終末)弥生時代中期後半の北部九州は「伊都国」が支配していることがわかる。

卑弥氏の渡来

紀元前221年始皇帝は「秦王朝」を樹立する。

 辰韓在馬韓之東。其耆老伝世、古之亡人避秦役、来適韓国。「三国志」辰韓伝

(訳)辰韓は馬韓の東にある。其の耆老(きろう)は世々伝えて自ら言う、古の亡人が秦の役を避けて逃亡者が続出する。

「松野連系図」に「宇閉」がいる。

宇閉

漢の宣帝の時「地節二年(紀元前68年)」、遣使  「松野連系図」

宇閉は地節二年に漢に朝貢している。紀元前75年に卑弥氏の倭城は、遼東郡になっているので朝鮮半島の南部から朝貢したと考えられる。

     卑弥氏の移動経路は、紀元前108年  漢は「衛氏朝鮮」を討つ→卑弥氏は「真番郡」に属する→紀元前75年 漢は遼東郡の領土拡大→宇閉は漢へ朝貢(大凌河下流)→紀元前50年漢は遼東郡の支配を強化→卑弥氏は朝鮮半島南部へ

男女近倭、亦文身。
(訳)(弁辰国の)男女は倭に近いところでは亦文身(刺青)をする。

韓在帯方之南。東西以海為限。南興倭接。方可四千里    「三国志」韓伝
(訳)韓は帯方郡の南に在り、東西は海を以て限りと為す。方四千里ばかり。

魏志倭人伝の方位

「弥生時代後期」紀元0年頃 天氏の都(須玖遺跡)が破壊され朝鮮半島東南部の「錨型鉄器」が出土している。

「卑弥氏」が「天氏」より「王権」を奪ったと見るべきである。

建武中元二年(57年)、倭奴国は奉貢朝賀す。倭国の極南界なり。光武賜うに印授を以てす。「松野連系図(卑弥氏)」に「中元二年に漢へ和通し、印綬を賜る。倭奴国王を称す。」とある。

不彌国

三国志」「倭人伝」に不彌国があり、「三国志」「韓伝」にも不彌国の記載がある。「三国志」の記載では半島の「不彌国」は「戸数」だが倭国の不彌国は「家」と記されている。

おそらく倭国の不彌国は半島の不彌国の分国と考えられる。韓国の不彌国の位置には倭国があったはずである。

以下のことから金印を賜った伊都国は一時 不彌国に奪還されたと考えられる。その時 倭国が一時避難した場所が筑紫野市隈であるようである。

魏志倭人伝

隈・西小田遺跡、永岡遺跡

福岡県筑紫野市にあった隈・西小田遺跡、永岡遺跡は考古学者から「戦いに敗れたムラ」と呼ばれている。いずれも弥生時代中期前半ごろ(約2000年前)の墓地遺跡。隈・西小田からは429体、永岡からは53体の人骨が出土しているのだが、青銅器の切っ先が突き刺さっていたり、頭を割られていたり、首がなかったり、あるいは首だけだったりと、無残な“戦死者”がとにかく多いのだ。当時の北部九州は、稲作社会の進展とともに土地争い、水争いが激しさを増し、極めて不穏な社会だったらしい。

卑弥呼

不彌国に追い出された「倭国」は紀元前50~204年まで朝鮮半島南部に戻っている。

安帝永初元年、倭国王師升等献生口百六十人、願請見。  「後漢書」倭伝
(訳)安帝の永初元年(107年)、倭国王師升等は生口百六十人を献じて、請見を願う。

請見(謁見を申し出る)とあるのは、107年には「倭国」は朝鮮半島南部にあるゆえである。204年公孫康は「韓」と「濊」を伐つ→倭人朝鮮半島から日本列島に逃亡→伊都国王権・纏向王権

倭人国

倭人在帯方(郡)の東南の大海の中に在る。依山島為国邑。舊百餘国。漢時有朝見者。今使譯通三十国  三国志「倭人伝」
(訳)倭人は帯方郡の東南の大海の中に在る。山島に依り国邑を為す。舊百餘国。漢の時、朝見する者在り、今、使譯(通訳)通じる所三十国

伊都国王権の確立

其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱。相攻伐歴年、乃共立一女子為王名卑弥呼。
(訳)其の国は本亦男子を以て王と為す。とどまること七八十年、倭国乱れる。相攻伐歴年、女子を共立して王と為す。名を卑弥呼という。

倭国と倭奴国

倭国

従郡至、循海岸水行。歴韓、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千餘里。始度一海、千餘里至対海国(中略) 方可四百餘里(中略)又南渡一海、千餘里。至松盧国(中略) 東南陸行陸行五百里到伊都国。     「三国志」倭人伝
(訳)帯方郡より倭に至るには海岸にしたがい水行する。韓国を歴るに乍(しばらく)南し、乍く東して北岸狗邪韓国に至る。七千餘里。始めて一海を渡る、千餘里。対海国に至る。(中略)方可四百里(中略)又南に一海を渡る。千餘里(中略)一大国に至る。(中略)又一海を渡る、千餘里。松盧国に至る(中略)東南へ陸行く五百里、伊都国に到る。

「従郡至倭」とある「始発点(帯方郡)」から「終着点(倭国)」までのことである。

「循海岸水行」とある。すなわち「従郡至倭、循海岸水行」で文章は終わっている。「水行。」「句点」である。次に新しい文章の「歴韓国 」がくる。

※従来は全ての研究者が「従郡至倭、循海岸水行・・・」と「読点」にしているのが間違いであった。

歴韓国、乍南乍東、到其北北岸狗邪韓国、七千餘里
(訳)しばらく南に行き、しばらく東へ行く。帯方郡から狗邪韓国まで七千餘里

邪馬壹国

韓在帯方之南。東西以海為限。南興倭接。方可四千里    「三国志」韓伝
(訳)韓は帯方郡の南に在り、東西は海を以て限りと為す。方四千里ばかり。

※狗邪韓国は金海のことである。

始度一海、千餘里。至対海国。(中略)  方可四百餘里
(訳)対馬は二辺が800里を海岸にしたがい水行する

「水行」は次のようになる。

■帯方郡より狗邪韓国まで・・・7,000里
■狗邪韓国より対海国まで・・・1,000里
■対海国の二辺を水行・・・・・・・・・800里
■対海国より一大国まで・・・・・・1,000里
■一大国の二辺を水行・・・・・・・・・600里
■一大国より松盧国・・・・・・・・・1,000里

行程には「行」がついている。「行」がある行程
■「東南陸行五百里、伊都国」・・・「陸行」
■「東行至不彌国、百里」・・・「東行」

「行」の無い記述
■「東南至奴国、百里」                           
■「南至投馬国、水行二十日」              
■「南至邪馬壹国」                                 

「松盧国」に上陸して「500里」陸行して「伊都国」に到り、さらに「100里」東行して「不彌国」に至る。

「奴国」「投馬国」は「行」が無いので「行かない」。

自郡至女国。萬二千里。
(訳)帯方郡より女王国に至る。一萬二千里。

帯方郡から不彌国までが「12,000餘里」だから「帯方郡から女王国(邪馬壹国)」までの距離(12,000餘里)と一致する。

つまり「不彌国」まで行くと「女王国(邪馬壹国)」に至るということになる。

「至」と「到」
■「至」・・・目指すところにとどく。
■「到」・・・目的の場所や時間に届く。

「倭人伝」で「到」を使用しているのは「狗邪韓国」と「伊都国」で「邪馬壹国」は「至」であると
「狗邪韓国」が最初の「目的地」「伊都国」が二番目の「目的地」なので「到」を使っている。
「不彌国」には「至」目的地ではないからである。

ところが「邪馬壹国」にも「南至邪馬壹国」と記されている。これは「目的地」ではないためからと考えられる。

対海国 一大国 松盧国 伊都国 奴国 不彌国 全て玄界灘に面した国々である。

「東行至不彌国、百里。(中略) 南邪馬壹国」と記されていることから「不彌国」と「邪馬壹国」は隣接していることがわかる。

津古生掛古墳

すると「邪馬壹国」は「福岡市南区~小郡」と考えられる。
「邪馬壹国」の都は小郡である。「卑弥呼の墓」は小郡の津古生掛古墳であると考えられる。

狗奴国

■57年頃、不彌国に追われた「倭奴国」は筑紫野市「隈」に移住する。

■更に220~230年頃、朝鮮半島から逃げてきた「倭国」に追い出され「朝倉市」へ逃げる。

其八年、倭女王卑弥呼興狗奴国王卑弥弓呼素不和。遣倭載斬鳥越等、詣郡説相攻撃状。 塞曹掾史張政等、困贋詔書黄幢、拝借難升米、為檄告論之。 「三国志」倭人伝

(訳)其八年(正始八年(247年))、倭の女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と素より不和。倭の載斬鳥越等を遣わして郡に詣り、総攻撃の状を説明する。塞曹掾張政等を遣わして。困りて持ってきた。詔書と黄幢を難升米に拝借し、檄(木に書いた札)と為し、之を告諭す。

「狗奴国」とあるが「倭奴国」であろう。「狗奴国の男王卑弥弓呼」と有るのは卑弥氏であり「倭奴国」ということになる。この「倭奴国」こそが「魏志倭人伝」でいう「狗奴国」のことと考えられる。

邪馬壹国と狗奴国

分析

佃収先生の理論通りならば、俗に「倭国」と呼ばれる国は、九州に存在し「卑弥氏」(九州王朝)が治める国であった。

そして「卑弥氏」に追われた安冕辰沅氏(天氏)が畿内に移動し「記紀」に記される「大和朝廷」であるという結論に至ります。

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