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新帝擁立

継体天皇

継体天皇は即位から19年間倭入りせず526年磐余玉穂宮に還ったと云われる。この年の翌年 磐井の乱が起きたことは偶然と考えにくい。

継体天皇の崩年

継体天皇の崩年は「日本書紀」によれば531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、即位の同日に崩御したと記されている。

しかし注釈の「百済本記」(散逸)には「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」(訳)「太歳辛亥三月、百済軍は進んで安羅に至り、乞乇城を営んだ。この月に高麗は、其王安を弑逆した。また聞くところでは、日本の天皇及び太子、皇子がともに薨去された。」と記されている。 (この書は現在の三国史記の元本で現在は存在しない 七世紀後半の百済亡命人が大和政権に献呈したとされ信用がおけるものである。)

崩御と即位の疑問点

ここで疑問となるのは「日本の天皇及び太子、皇子がともに薨去された。」とある点である。

これは継体天皇とその太子 安閑天皇 皇子 宣化天皇を指すのか、もしくは磐井とその息子達を指すのか疑問がある。

「元興寺伽藍縁起」「上宮聖徳法王帝説」の欽明の即位年を531年の翌年としている点を考慮すると安閑・宣下が即位せず欽明が即位したとも考えることができる。

磐井とその皇子達を指すのであれば磐井の死は531年で磐井の死後その息子が即位したと考えることができる。

天皇(和風諡号)

安閑天皇

父親 継体天皇 母親 尾張目子媛 和風諡号 広国押武金日天皇 子に豊彦王がいること以外事績はほぼ無い

宣化天皇

父親 継体天皇 母親 尾張目子媛 和風諡号 武小広国押盾天皇 子に石姫 皇女(欽明天皇の皇后)宅部皇子がいる。事績はほぼ無い

欽明天皇

父親 継体天皇 母親 手白髪郎女 和風諡号 天国押波流岐広庭天皇(古事記)天国排開広庭天皇(日本書記)以後欽明天皇の血統が皇室の系統となる。

橘の広庭

安閑 宣化天皇の和風諡号には武と広国の文字が確認できるが欽明天皇の和風諡号には天国と広庭の文字が確認できる。ここから想像されるのは斉明天皇の「橘の広庭」である。

火(肥)の君

後の時代の稲佐神社の縁起には「百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。」とある。

阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 – 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。

Wikipediaより

このことからも火の君は欽明天皇や聖徳太子にとっても右腕的な人物であったことがわかる。

この阿佐太子を迎えた火(肥)の君だが火の君を先祖に持つ仲間の研究では火(肥)の君とは橘氏であり、この橘氏のルーツを調べると豊玉彦と玉依姫に行き着き白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)でありその本貫地は八代の妙見宮でここが下鴨神社のルーツであることが判明した。

橘氏は橘諸兄(葛城王)を祖と記載されているが、それ以前は葛城氏であった可能性がある。

更に豊の名は大分と考えがちだが実は熊本の火の君の領内にも豊を使う地が多く存在することが判明した。

分析

今現在わかったことをならべると

  • 筑紫の君磐井は倭の五王の一族である。
  • 継体天皇は垂仁天皇の子孫の可能性が高い
  • 磐井の乱は物部麁鹿火(もののべ の あらかひ/あらかい)による下剋上である。
  • 都入りした継体天皇と皇太子 皇子は暗殺された可能性がある。
  • 欽明天皇の母 手白香皇女は磐井の子である可能性が高い
  • 欽明天皇の即位には火の君が関わっている。
継体天皇陵と噂される山田大塚古墳

橘の広庭がある朝倉に継体天皇の陵と噂される阿部氏が祀る古墳が存在する。この古墳は宮内庁により保護されている。

以下のことから継体天皇は都入りしたが、皇太子 皇子共に暗殺され五王の直系の欽明天皇が即位したと考えられる。

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