スポンサーリンク

弓月君

福岡県

弓月君

 「日本書紀」による帰化の経緯としては、応神天皇14年に弓月君が百濟から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても 葛城襲津彦 は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平郡木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波多姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。

このように記載されている弓月君とは誰を指すのであろうか?

金龍寺

金龍寺

糸島高祖神社のすぐ近く金龍寺という寺があります。ここには秀吉の九州征伐に砌反抗して滅亡したと伝わる原田氏の菩提寺 金龍寺があり弓月君と共通することが記されています。

大蔵朝臣原田家畧歴案内

大蔵朝臣原田家畧歴案内
一、大蔵朝臣原田家は中国漢の高祖劉邦を始祖となし八十代信種公迄続いたが天正十五年四月十七日豊臣秀吉九州征伐の砌反抗して滅亡した。
一、後漢孝霊皇帝の曽孫阿知王は応神天皇二十九年九月五日(西暦二八九)その子都賀王並びに七姓氏十七県民と共に備中国窪屋郡大倉谷に上陸しここに住む。
一、朝廷か東漢の姓と使主の位を賜り斉蔵の長官に任じ(大蔵省)奈良県高市郡明日香村桧隈に住居を賜う。
一、呉の国に使いして四人の織女」をつれ帰り養蚕染色機織裁縫の術を教え飛鳥時代の華と咲いた。一、坂上の姓と大蔵の長官に任じ、後に姓を大蔵と賜り忌寸後に宿禰を賜った。坂上〇同田村麿等大きに功あり喜祥元年三月朔日朝臣の位を賜う(日本書紀)
一、征西将軍大蔵春実は九州に下り逆臣藤原純友の乱打ち平げ功に依り太宰弐竹善守に任ぜられ筑前築後豊前壱岐対馬の管理職となり基山の椽城に居た。筑紫郡原田に白を築き姓原田と改む。
一、後に那珂川城山に岩戸城を築く(岩戸村)種村は刀伊の賊を種光は何番の賊を打ち退けた。
一、種直は安徳天皇を以上に迎え安在所とした為帝は御所号を賜った。依って岩戸、高祖 ともに御所と呼んだ。
一、種直は平家滅亡の後。高祖に城を築いた。建仁三年大蔵朝臣家菩提所として伊勢城戸の列法に月見山別館(現在金龍寺)を建立す。
一、種照は文永十一年十月二十日高句麗蒙古の混成軍弐萬八千人と筥崎浜にて戦い神社裏で戦死す。
一、種之種房兄弟は弘安四年五月二十日再び来襲した十四万人の大軍を今津浜に撃って殆全滅せしめた。
一、興種は父弘種菩提の為曹洞宗金竜寺を建立した。
一、隆種は波乱万丈の戦国時代に良く対処して来て雄将と言われ乍ら晩年内憂外患の障害を終わった。一、信種は豊臣秀吉九州征伐の砌老臣の言をいれず炭鉱してここに滅亡す。原田歴代の英将此処に眠る。
晋山式記念昭和四十八年四月二十九日 曹洞宗太祖山金竜寺世話人一道 案内版より

阿知王

宮本武蔵の終焉の地と伝わる霊巌洞

更に熊本県 宮本武蔵の終焉の地と伝わる霊巌洞の途中に阿知王なる祠がありそこを覗くと驚くべきことが書かれていました。

阿知王祠
大蔵姓田尻氏正統系譜
阿知王由緒
大蔵姓田尻氏正統系譜
肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系図

阿知王由緒

大蔵姓田尻氏正統系譜

肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系図

漢の高祖劉邦大皇帝克陶唐氏の裔其十五世後漢霊帝の曽孫阿知王仁にして腎一日老臣を集め告げて曰く、吾久しく斯地に居れば恐らく履滅の禍あらん 聞くところによれば東方日本に聖天子有り我往て之に従うことを欲す是に於いて其子都賀王、母弟興徳及び劉国鼎劉潦が子(池園の子)劉鶴明 劉信が子(深江の祖)、張陵(浦志の祖)、安玖良(鬼木の祖)、曹辛(中園)植保(水上の祖)、楊胤(牧園の祖)、趙寛(富田の祖)、姜裕(鳥越の祖)等二千四拾人を率い晋の大康十年五月朔日漢土帯方郡建国邑を離れて漂蕩幾多の難(?)難を経て日本に至り応神天皇二十年九月五日備中の国窪屋群大倉谷に来朝す、施命を奉じて大和国高市郡桧前村を賜りて之に居らしめ姓を東漢使王と賜ふ都賀王使王と号す。応神天皇三十七年二月朔日詔を奉じて父阿知王と呉に往き縫工女兄媛、弟媛 呉織 穴織の四婦女を得て四十一年二月帰朝す。
是より我国に縫工起れり。此の裔坂上、内蔵、大蔵、桧前、佐太、畝火、平田、谷、桜井、山口、文忌、桧前忌寸、宿禰、火撫直、池上直 栗価直 丹波史 藤人 芦屋漢人等の祖なり都賀王より第十五世孫大蔵朝臣春実 筑前国糸島郡長糸村原田に新城を築く(天慶七年二月八日)而して原田を以って家号と為也、秋月、田尻、波多江、原、高橋、后藤、之より出づ 田尻氏筑後三池郡田尻より起る 対馬守春実朝臣、朱雀院、天慶三年庚子、錦御幡を賜り、而て逆進藤原純友を追罰し、勲功に依って征西将軍と為す。大蔵朝臣春実ー種光ー種材ー光弘ー種輔ー種生ー種俊ー原田種成ー肥後初代田尻主計頭
奉納 田尻久善

真ん中が漢高祖劉邦大皇帝 右が漢皇霊帝 左が阿

阿知神社

倉敷 阿知神社

阿知神社由緒

応神朝に朝鮮半島より渡ってきた漢の霊帝の曾孫、阿知使主(あちのおみ)一族。彼等は「製鉄」「機織」「土木」等の先進文化を担う技術集団として、吉備国の繁栄の礎を築き、当時、島(内亀島)であったこの鶴形山に神々の天降られる斎庭として、日本最古の蓬莱様式の古代庭園を造ったと伝えられている。
白壁の蔵の町、倉敷美観地区の一角にある鶴形山の頂上に鎮座する当社は、この阿知使主一族の大いなる功績を称え、明治時代に現社名になったが、社伝によると神功皇后がこの付近を航行の折、嵐に遭い祈願されたところ、三振の剣が天空より明るく輝いてこの山に天下ったため、「明剣宮」として、宗像三女神をお祀りしたとされている。中世、神道が仏教と習合し、明治までは「妙見宮」と称され、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた。
祭神の宗像三女神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神で、海の守護神であり、交通交易、財宝、芸術、美の神でもある。その他、応神天皇を始め、約三十柱の神々をお祀りしている。
また山には神々をお祀りする磐坐(いわくら)が点在し、古代から神の島として崇められてきたと思われる。
阿知神社HPより

分析

以下のことから判るのは「日本書紀」に記されている弓月君は阿知王を祖とする東漢氏のことであることが判ります。

東漢と言えば蘇我氏の親衛隊であり蘇我氏のあるところには必ず東漢氏がいたといわれます。大化の改新の際にも蘇我氏の側近には東漢氏がいたことが記されています。


 金龍寺の由緒書では藤原純友の時代に九州に居たことになっていますが、飛鳥時代以前 大分県日田市にも東漢氏は存在し日下部氏の側近であったことは書面にも残されています。

ここは磐井の乱の際激戦地であり日下部氏の側近の東漢氏が活躍したことは明確です。もしかしたら蘇我というのは偽名であり本名は日下部であったと考えるのは考えすぎでしょうか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました