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継体擁立前夜(5~6世紀半島情勢)

継体天皇

5世紀後半倭国

倭王武

倭王武は興の弟と「宋書」に記載があることから「記紀」に記される雄略天皇のことである可能性が高い

「記紀」に記される雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)は気性が荒く独裁的であったことが記されている。

478年の武の上表文には大和政権の国内統一事業,朝鮮半島経略のことが記載されている。451年宋から「使持節都督 (しじせつととく) 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号を与えられた。

稲荷山古墳 江田船山古墳鉄剣

(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

(訳)

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」

「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『カク、ワク』+『カ、クワ』+『タ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(以上は裏面)」

稲荷山古墳鉄剣

ワカタケルの文字が見られる。

宋書倭人伝

「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」

(訳)時の順帝は、上表に応え、詔を以て武を、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍とした。倭王に叙爵し、倭国が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)に対して、百済を除く朝鮮半島及び倭の六国支配を認めた。

「宋書」倭国伝

半島の様子

宋書新羅伝

斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉」。

(訳)斯羅國は元は東夷の辰韓諸国の中の一小国であった。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に服属し、あるときは倭に服属していたため、国王は使者を派遣できなかったとしている。普通二年(521年)に、募秦王(法興王)が、初めて、百済に随伴し朝貢する使節を派遣した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

「宋書」新羅伝

三国史記

法興王が国家制度の整備に努めた。520年には官位制度を整えるとともに、官職ごとに公服とその色彩の序列を定めるなど、律令による政治を敷こうとしたとされる。後に531年には17等の京位のさらに上に、すべての国政を司る「上大等」の官位を設けた。また、539年には新羅独自の年号をはじめて定めて建元と称するなど、前代よりもさらに王権の強化を果たしたことが窺える。

「三国史記」

半島の任那日本府

この時代半島には任那があったことが考えられる。

任那日本府

任那の一国である安羅に所在し安羅日本府ともいう。「使持節・都都倭新羅 任那加羅(加羅)秦韓慕韓・六国諸軍事」である倭王(九州王権)の「半島倭国である任那諸国の統治機関」としての官家であったと考えられます。継体紀六年冬十二月条(後出)に「住吉大神が最初に海外の金銀の国、高麗、百済、新羅、任那等を(神功皇后の)お腹にいらした誉田天皇(応神天皇)にお授けになられた。神功皇后は大臣である武内宿禰と、それら国毎に初めて(倭国)の官家を置き、海外に設けた藩塀(王家の守り)とし」とある。

任那日本府は、任那諸国に置かれた官家とは異なり、兵站基地としての機能が重視され、一定数の軍兵が常駐し、兵器・資材を収納する大型倉庫が設けられ、任那日本府の長官は倭王に代わり、任那諸国の兵器・兵糧等の軍事物資の調達を行う権限を行使できたと考えられる。

分析

朝鮮半島南部は武烈天皇の時代まで倭の治める地であったが、武烈天皇崩御後半島の支配権を欲した近江王朝(日本)が出兵を試みたが任那日本府と新羅の法興王の連合に拒否された為、半島の支配権を持つ倭(九州王権)の磐井を討伐することによりその権利を奪おうと試みたと考えられる。

「三国史記」における法興王の「国家の整備」とは現時点においてまだ倭の直轄地であった任那・金官伽耶と共謀し新羅に合併することにより畿内王家による支配をかわす目的であったことが想像される。

「日本書紀」に記される雄略天皇「宋書」にある倭王武が誰をを指すのか疑問だが倭の倭王武を指すのであれば磐井もしくはその近親者であった可能性は否定出来ない。

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