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真説 聖徳太子

聖徳太子

聖徳太子

聖徳太子の本名については同時代史料には残っておらず、『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。『日本書記』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」用明天皇紀では「豊耳聡聖徳 豊聡耳法大王」「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

功績

敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子(用命天皇)が即位後 仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が対立 用明天皇死後。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こし厩戸皇子もこの軍に加わった。推古天皇即位後 厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。

推古天皇10年新羅征討の軍を起こした。渡海準備中に来目皇子が死去 結局、遠征は中止となった。

推古天皇11年 冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定め 推古天皇12年 十七条憲法 (十七条の憲法)(じゅうしちじょう(の)けんぽう)推古天皇15年 小野妹子等を隋へ派遣した。推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃の後を追うように厩戸皇子は死去した。

斉木雲州氏著の「上宮太子と法隆寺」の記載

聖徳太子と言われている人物の本名は上宮皇子(かみつみやおうじ)。のちに上宮太子と呼ばれた。用明天皇と穴穂部間人皇女の子。用明天皇が物部守屋に暗殺されたため、上宮皇子は竹田皇子や巨勢比良夫らと守屋を討つ。その戦勝を祈願した四天王への返礼として石川麻古に依頼して四天王寺を建立。次期大王を約束されていた身分だったが、推古帝が実子の尾張皇子に継がせようとしたため斑鳩に移り、自ら即位して上宮大王と名乗る。翌年、推古帝は尾治大王を即位させ、二人の大王が存在する時代になる。家臣団の多くは尾治大王についたため上宮大王は孤立、以後は法王と呼ばれて実権のない存在となる。法王はその後「三経義疏」を著し、仏教の普及に尽力した。悲運の人であったが、大古墳の築造を止めさせ、代わりに仏教寺院を作ることを奨励するなど、仏教の発展に尽くした功績は多大なものがある。

斉木雲州氏著の「上宮太子と法隆寺」河原白兎解説より

「隋書」による多利思北孤(たりしひこ)の記載

大業3年(607年)の国書に「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を怒らせた(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)。「內官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信」「 内官に十二等有り。一(はじめに)大徳と曰ひ、次に小徳(せうとく)、次に大仁(だいにん)、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大礼(だいらい)、次に小礼、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信といひ、員に定まりたる数無し。」とある

「隋書」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」

「隋書」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には冠位十二階(かんいじゅうにかい)や小野妹子等を隋へ派遣について多利思北孤(たりしひこ)の功績として記載がある。

仏教の伝承

聖徳太子の功績として仏教の伝来がある 聖徳太子の姿 仏教の伝来についての記載を探してみると次のような伝承が残っている。

聖徳太子の姿

推古天皇の時代 百済の王子阿佐王は阿蘇の君を頼って佐賀の白石に来日したと伝わり聖徳太子に逢い肖像画を描いたと伝わっている。

後世推古天皇の御宇、百済国の王子阿佐来朝し此地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。 其の後、里人阿佐の霊を合祀して稲佐三社と云えり。

稲佐神社由緒書き

仏像(百済観音 救世観音)

更に聖徳太子を模して造られた仏像(百済観音 救世観音)は楠で彫られておりその当時の北限は福岡であることから九州であると考えられる。

私年号

私年号(しねんごう)は、紀年号として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す。異年号(いねんごう)・偽年号(ぎねんごう)・僭年号(せんねんごう)とも呼ぶ。

法興

「法興」年号は『法隆寺釈迦三尊像光背銘』に刻まれている。

法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼(推古二九年六二一)前太后崩明年(推古三〇年六二二)正月廿二日上宮法皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並著於床時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中(推古三一年六二三)如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳具竟乗斯微福信道知識現在安穏出生入死随奉三主紹隆三寶遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造 (訳) 翌年(622年)の正月二十二日に前皇太后が亡くなり、その年の正月二十二日(622年正月三十日)、王は枕元で病んで脳が乾き、皇后はまだ病気で寝込んでいた。

釈迦三尊像光背銘文

古田武彦氏によると622年正月三十日は『書紀』に記す聖徳太子の薨去年月である。

  • 「鬼前太后」や「干食王后」も太子の母・妻の名と合わない。
  • 「上宮法皇の『法皇』とは、明らかに仏教の僧籍に入った天子の意味である」が聖徳太子が僧籍に入った形跡は無い。

「法皇とは聖徳太子ではなく、九州王朝の天子『多利思北孤』」であって、「法興元」は多利思北孤の年号とされている。

また、『釋日本紀』に引用の『伊予国風土記逸文』中の「伊予温湯碑」には、法興六年(五九六)に「法王大王」が伊予を訪れたとある。

  • (1).『蒲生郡志 長光寺縁起』法興元廿一年壬子の年二月十八日
  • (2).『上宮法王帝説』釋曰法興元世一年此能不知也 訳 法興元年と言われているが、これは不明である。
  • (3).『聖徳太子傳私記下』法興寺者(略)其時在法興元世一年號 訳 法興寺(略称)は、興国元師の治世の初年にあった。
  • (4).『聖徳太子伝古今目録抄』法興元世一年 (5).『太子像胎内納入文書』法興元世一年

菩薩天子と法号(戒名・法名)

古田武彦氏によると同時代の中国(隋王朝)では、初代王楊堅(文帝)が北周武帝の仏教弾圧から一変して崇仏施策をとり、開皇元年(五八一)には出家を認め、開皇四年(五八四)には、天子の権威とは別に、仏教上の律師の権威を容認した。僧籍に入れば法号を授かる事は当然としている。多利思北孤が端政三年(五九一)に仏門に入り、聆照律師から戒を受け法号を授かった可能性は高い。その法号こそ「法興」としている。

聖徳

  •  (1).『海東諸国記』舒明天皇敏達孫名田村元年己丑改元聖徳六年甲午八月彗星見七年乙未改元僧要三月彗星見二年丙申大旱六年庚子改元命長在位十三年寿四十五 (訳)敏達天皇の孫である田村は、その治世の初年に聖徳と改名し、その治世の6年目には旧暦1月8日に彗星が現れ、その治世の7年目には旧暦1月3日に彗星が現れた。
  • (2).『襲國偽僭考』舒明天皇元年巳丑。聖聴元年とす。如是院年代記に聖徳に作る。1説曰舒明帝之時聖聴三年終 (訳)舒明帝の時代、聖徳は3年目で終わった。
  • (3).『如是院年代記』【聖徳元】《第三十五代舒明》忍坂大兄皇子之子。敏達之孫。己丑即位。居大和高市郡岡本宮。治十三年。壽四十九歳。(訳)不忍坂天皇の長兄の息子。敏達の孫。 治承元年に即位。 大和高市岡本神社に住す。 治承13年生まれ。 49歳まで生きる。
  • (4).『麗気記私抄』第卅五代舒明帝治元号聖徳元己丑也 (5).『茅[窗/心]漫録』聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、古代年號作聖聽、三年改元、〉(訳)舒明天皇の元年、治世元年、治世二年、治世六年、治世末年、年号、治世、暦、諸外国の記録はすべて同じであり、古代の年号を聖徳という。
  • (6).『防長寺社由来』舒明天皇之御宇聖徳三歳経七月役小角誕生自聖徳三年辛卯(六三一)・・・御歳七十二歳御入虚) (7).『金峰山寺古年皇代記』舒明天皇聖徳三辛卯経七箇月・・・役小角誕生是縁起ニ見タリトアリ)
  • (8).『講私記』(心鑑抄修要秘訣集)役行者舒明天皇聖徳三年辛卯十月二十八日降誕
  • (9).『長吏由来之記』欽明天皇御宇聴徳三歳辛卯年・・・聖武天王之御子出生給
  • (10).『園城寺伝記』夫仁経・・・欽明天皇・・・同御宇聖徳三年辛卯九月廿日辰尅
  • (11).『本土寺過去帳』(千葉県松戸市長谷山本土寺)聖徳三年八月、聖徳五年十一月
  • (12).『君台観左右帳記』聖徳六年戊巳(甲午か)
  •  (13).『箕面寺秘密縁起』役行者・・舒明天皇御宇正徳六年甲午(六三四)春
  • (14).『役行者本記』(帝王編年記)役小角行者舒明天皇聖徳六年甲午正月(一説に十月)朔日降誕

九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)についてより

これら資料から聖徳元年は六二九年と考えられる。

法興が多利思北孤とすると聖徳とは誰を指すかと云うと多利思北孤には利歌彌多弗利(りかみたふりという)太子がおり、上宮法皇にも臨終の枕頭に王子がいたと記す。多利思北孤が上宮法皇ならこの王子は利歌彌多弗利で、上宮法皇の登遐の翌年に九州年号が改元されているから、そのまま次代の天子に即位したことになるこれが聖徳である。

利歌彌多弗利の記載

『善光寺縁起集註』には命長七年(六四六)の九州年号と「斑鳩いかるが厩戸うまやど勝鬘しょうまん」の署名の入った文書が存在する。

仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念  命長七年丙子二月十三日進上 本師如来寶前  斑鳩厩戸勝鬘 上 (訳) 私の師である弥勒菩薩様が、私を祝福し、いつも守ってくださるようにと願っています。命長七年丙子二月十三日進上 本師如来寶前  斑鳩厩戸勝鬘 

「南岳禅師後身説話」南岳禅師(慧思。五一四~五七七)は倭国王子に転生し仏法を興隆し衆生を済度したとする。つまり慧思は「聖徳太子」に転生した。

鑑真和上「南岳禅師後身説話」

観世音寺

更に観世音寺の前身の名前は法興寺といい法興つまり九州年号で云う多利思北孤法号(戒名・法名)であることから「白村江の戦い」以降 奈良の法隆寺に移築した可能性は否定ない。

分析

蘇我氏の内乱は天智天皇を押す石川麿と天武天皇を押す日向の内乱でありと九州の聖徳太子の話は元々別物であろうと考えられる。

『新唐書』卷220列傳第145 東夷 日本に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」とあり敏達の次の王は用明(多利思北孤)であり多利思比孤を用明天皇としている。

つまり法興とは多利思北のことで聖徳とは利歌彌多弗利の別名でであり「日本書記」のおいては多利思北孤は用明天皇 利歌彌多弗利は舒明天皇と記され上宮王家とはこの一族であると可能性が高いと考えられる。

つまり聖徳太子の功績と記される遣隋使・冠位十二階・十七条憲法 (十七条の憲法)(じゅうしちじょう(の)けんぽう)のは法興こと多利思北の功績を聖徳太子の功績として時代を変えて記載したつまり倭国の本当の系図は敏達ー用命ー舒明となる。

肖像画は聖徳太子とされる人物が法興こと多利思北で山背大兄皇子とされるのが聖徳こと利歌彌多弗利であると考えられる。

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