仲哀天皇と神宮皇后宮が福岡で宮を構えたと伝わる地を香椎といい、その跡地には現在香椎宮という神社が建っています。
香椎宮参道(勅使道)
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神社まで約1キロを勅使道といい御幣物を奉納して御祭文を奏上します。その時行われるのが「勅祭」で大正14年(1925年)からは10年毎に行われるそうです。
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参道
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神功皇后の神社でよく見る弁財天(市杵島姫命)ですが、香原宮でご紹介したように神功皇后にとっては先祖に当たります。
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桜門
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境内
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手水舎
香椎宮御由緒畧記
香椎宮御由緒畧記
御祭神 主神 仲哀天皇 神功皇后 配神 応神天皇 住吉大神
御由緒 香椎宮は西紀二〇〇年神功皇后躬て仲哀天皇の御神霊を祀り給うのが起源です。
次いで神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(七二三)皇后の御神託により朝廷が九州に詔して社殿の運営を始め聖武天皇の神亀元年(七二四)に竣工したものでこの両宮を併せて香椎廟と称した。
明治以後官幣大社香椎宮戦後は香椎宮と称している。
香椎宮は伊勢大廟(伊勢神宮)と共に廟号を以て神社と異なる特別な御崇敬を捧げられ、国家の大事に際しては必ず奉幣の勅使を差遣せられ国家の安泰を祈願された。現在十年毎に勅使の参向があり、全国十七社の勅祭社の内、九州では当宮と宇佐神宮の二社のみが勅祭社と定められている。以下略 案内版より
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神功皇后が「とこしえに本朝を鎮めるべし」と祈りをこめられて「お植に」なった杉で紀元八五〇年(西暦二〇〇)のことであります。 案内版より
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狛犬
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神門
拝殿 本殿
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拝殿
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本殿
神門は菊 香椎造りと呼ばれる社殿です
摂社
御祭神
大臣武内宿禰命
御由緒
大臣は孝元天皇の曾孫にして六朝の帝皇を輔け武勇英威 萬世を覆ふ殊に応神帝を襁褓のうちに養育奉り異国本朝の強敵を征し帝業無窮の基を開き給ふ 其功勲四海に被り子孫長く大臣執政に位凡そ八十八姓の祖神と仰がれ給ふ 神功 応神の御廟にはいづれの社にも大臣を配祀し天子の宗廟と共に萬世の血食し給うこと類稀なる神徳なり 御年三百余歳と云へり 往古二月六日 十一月六日の祭に太宰師圀郡司を率いて本営を拝して退出し更に大臣の殿に参入して再拝雨段して退く と(香椎廟宮記) 攝社 武内神社
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「高良玉垂神秘書」でいう嫡男 表筒男 鸕鶿草葺不合尊 別名 住吉大神の娘 佐賀の河上大明神 淀姫の夫であることから住吉三神の嫡男とされています。
巻尾神社
御祭神
中臣鳥賊津大連命(なかとみのいかつおおむらじのみこと)
御神徳
勝負運向上 武芸上達
例祭日
七月八日
由緒
仲哀天皇・神功皇后に仕えた五大臣の一人で、仲哀天皇崩御後、神功皇后・武内宿禰とともに ご神託を授かる役目を担い、三韓親征の祭には香椎の守護を命じられました。雷命として武芸に優れ、宮司家の一つ三苫家の祖先神、また中臣氏の祖先神と伝えられております。
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「高良玉垂神秘書」でいう次男 中筒男 神武天皇 実はこの人物 大山咋咋と玉依姫(湍津姫神)の息子で底筒男である阿部保蓮の父違いの兄弟に当たります。別名 崇神天皇 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神) 東征した神武天皇とはこの人のことを云うようです。
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上賀茂神社
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関係でいうと父親違いの兄弟となります。鴨玉依姫が神武天皇の母と記載されるのは、この為なのです。
早卂神社
御祭神
大伴武以(おおともたけもち)
また大伴氏は
記によれば、天孫降臨の際、天忍日命・天久米命の二人が、天の石靫を負い、頭椎(くぶつち)の太刀を佩き、天の波士弓(はじゆみ)を持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、御前に立って仕え奉る。
また書紀神代下一書によれば、天忍日命、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、臂には稜威(いつ)の高鞆を著き、手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る。
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朽瀬神社
御祭神
波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)
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波多八代宿禰とは
武内宿禰の長男である波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする。姓は臣のち朝臣、真人
波多八代宿禰に関係する神社とは
大和国高市郡波多神社の祝(ほうり:神職)の一族
高倍神社(こうべじんじゃ)
祭神
香椎武内家始祖 香椎廟廟司 大膳紀宿禰氏連命
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つまりこの人が香椎武内氏の始祖で宮司の家系のようです。
この大膳紀宿禰氏連命ですが 武内宿禰には九人の子供がおり 御紹介すると
1、長男 羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)
2、次男 巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)
3、三男 蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)
4、四男 平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)
5、五男 紀角宿禰(きのつのすくね)
6、長女 久米摩伊刀姫(くめのまいとひめ)
7、次女 怒能伊呂姫(ののいろひめ)
8、六男 葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ
9、七男 若子宿禰(わくごのすくね)
このうち四男の平群都久宿禰の子孫が 大膳紀宿禰氏連命で
神功皇后が大和に凱旋した後、武内宿禰の子供達はそれぞれ有力豪族として、朝廷に仕えていた。律令制度が整い平城京遷都の年(710)に、神功皇后の霊を祀る香椎廟創立が決まります。神功皇后の功臣の末裔から廟司を送ろう、とした時に選ばれたのが、武内宿禰の四男(平群都久宿禰)から十二代目の大膳紀宿禰(おおかしわできのすくね)。彼は香椎到着後、武内宿禰が居住していた旧屋敷跡に館を構え、周りにクスノキを植えた、とあります。
727年、大宰府長官である大伴旅人の赴任挨拶を受けた彼の息子から新たに武内姓を名乗り。六代目武内武宣が屋敷の北西の端に、香椎武内家の始祖である「大膳紀宿禰」を祀る神社を建てます。それが「高陪(こうべ)神社」であるとのことです。
昔は無かったと思いますがいつのまにか摂社が増えていました。
鶏石神社 稲荷神社
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