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武蔵寺(蘇我日向伝承地)

福岡県

菅原道真公が京に帰ることを祈願しに毎日通った天拝山の麓に九州最古の仏跡と伝わる寺がある。

武蔵寺

武蔵寺跡
武蔵寺は創建が奈良時代に遡ると考えられている古代寺院です・境内から出土した寛治八(一〇九四)年が発見されていることや、「今昔物語」「梁塵秘抄」などの古典にその名が登場するなど平安時代後期には隆盛を誇っていたと考えられます。
武蔵寺に伝わる縁起によれば、藤原鎌足の子孫で壬申の乱に功績があった藤原虎麿(初代大宰府師蘇我日向身刺)が創建したと伝えられています。
今も、天台宗の古刹「椿崋山成就院武蔵寺」として、法灯を守り続けています。            ~以下略~案内版より。

長者の藤


武蔵寺縁起によると、同寺の創建者と伝えられる藤原虎麿が
 「堂塔の盛衰は、この藤の栄枯にあらん」
と誓って植えたことから「長者の藤」といわれ、樹齢は700年以上とされています。
 慶応元年(1865)、太宰府に西下した東久世通禧ひがしくぜみちとみ(五卿のひとり)が、咲きにおう長者の藤を題材に、祖先の華やかな時代を偲んで詠んだ
 「藤なみの はなになれつつ みやひとの むかしのいろに そてをそめけり」
の歌は、歌碑として山門横に建てられています。
 この藤は、武蔵寺の歴史を伝える貴重な樹木であることから、天然記念物に指定されました。
                               [『筑紫野の指定文化財』より]

本堂

本堂

御自作天満宮

菅原道真公が武蔵寺に参籠(祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること)した時、自分の等身大の木像座像を刻んで納めたと伝えられ、それが御神体となっていることから、こういう名前が付いているそうです。
御神体は通常見る事ができませんが年に3回、1月25日の初天神、4月25日の春の大祭、そして10月25日の秋の大祭に、本殿の扉を開けて、御自作天神を御開帳しています。

武蔵寺縁起絵図

藤原虎麿(初代大宰府師蘇我日向身刺のことだといわれています。)の晩年を記した絵巻が残っていますのでご紹介します。

武蔵寺縁起絵図 第一幅


武蔵寺は「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」や「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」にもみえる著名な古代寺院である。境内から大治(だいじ)元年(1126)銘の経筒も出土していることからみて、平安時代後期が武蔵寺の最盛期であったと思われる。
この絵図の伽藍(がらん)は、おそらく当時を偲(しの)んで描かれたものであろう。

武蔵寺縁起絵図 第二幅


①木屋町(こやまち)の山中に不思議な火の玉が現れ、村人たちは逃げまどう。
②虎麿(とらまろ)は酒宴の席で家臣たちからその話を聞き、
③さっそく火の玉退治に出かけた。
④その夜、夢枕に摩虎羅大将(まこらたいしょう)が現れ、火の玉は薬師如来(やくしにょらい)の化身であることを告げた。
⑤翌日、虎麿が家臣たちを連れて山に入ると点々と血が落ちており、たどっていくと大きな椿(つばき)に矢がささっていた。
⑥夢のお告げどおり椿を切り、
⑦都から釈祚連(しゃくそれん)という僧侶を呼んで、その椿で薬師如来の像を刻み 、
⑧仏像を納める堂を建立した。

武蔵寺縁起絵図 第三

①武蔵寺の評判は都まで広まり、勅使(ちょくし)が遣わされた。②虎麿の夫人は月光によって身ごもり、薬師如来(やくしにょらい)の光が夫人を照らすと、無事女の子(瑠璃子(るりこ))が生まれた。
③疫病が流行し、多くの村人が死亡した。
④瑠璃子も病にかかったが、一人の僧侶が現れて、東方の田の中にある温泉に入れると平癒(へいゆ)することを告げた。
⑤その場に行くと、たちまち温泉が
 湧き出した。
⑥お告げどおり、瑠璃子を入湯させた。
⑦そして瑠璃子の病はなおった。

武蔵寺縁起絵図 第四幅

①天武方(右)と大友方の戦い。
②大友方の勇将智尊(ちそん)のため天武方が敗北する。(『日本書紀』や武蔵寺縁起では記述が異なる)
③近江瀬田橋の戦い。右が天武方、左が大友方。
④天武方の鋤鉤(さひち)、瀬田橋のほとりで智尊を斬る。
 (このことは『日本書紀』には見えない)

分析

創建者の藤原虎麿ですが、武蔵寺に伝わる縁起によれば藤原鎌足の子孫で壬申の乱に功績があった藤原虎麿 (初代太宰師蘇我日向臣身刺のことだといわれています。)の建立、伝教大師の開山といわれてます。

蘇我日向

蘇我日向 字:身刺(むさし)父母 父:蘇我倉麻呂 兄弟 石川麻呂、連子、日向、赤兄、果安  飛鳥時代 死没 不明


蘇我馬子(そがの-うまこ)の孫。皇極天皇3年(644),中大兄(なかのおおえの)皇子(天智(てんじ)天皇)の妃となるはずの異母兄蘇我倉山田石川麻呂の長女をうばった。のち石川麻呂が皇子を殺害しようとしていると讒言(ざんげん)。石川麻呂を自殺させたが,その無実が証明されると,皇子から筑紫大宰帥(つくしのおおみこともちのかみ)に任じられた。世人はこれを隠流(しのびながし)といったという。字(あざな)は身刺(むさし)で,無耶志,武蔵,身狭ともかく。
寺名については、武蔵国池上より日蓮宗の僧が来て、武蔵寺となったという。686年(朱鳥1年)藤原虎麿が亡くなった後、その命日に「地蔵会」が行われ、現在も続いているという。

Wikipediaより

息長家の血統であった宝姫は石川武蔵という人物に嫁いでおり、大海人王(のちの天武天皇)という子供まで生まれていました。しかし、御食子は人妻であった宝姫を強奪して奪い、田村王と結婚させたのでした。

649年、中臣鎌子の軍が石川山田麿を襲い、自害させます(つまり、藤原鎌足が蘇我氏の後継者を殺したということです)。山田麿は石川雄正に代わって実力となっていた人物でした。彼の住んだ場所は浄土寺と言い、後年山田寺と呼ばれるようになりました。

山田麿の弟・石川武蔵は筑後太宰府の帥に任じられ、中央から遠ざけられます。

斉木雲州氏説

蘇我石川氏

日本書紀』では「石川宿禰(いしかわのすくね)」、『古事記』では「蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)」、他文献では「宗我石川」とも表記される。「宿禰」は尊称。

孝元天皇の玄孫(武内宿禰の子)で、蘇我氏およびその同族の伝説上の祖とされる。蘇我満智の父とされている。

Wikipediaより

藤原鎌足

出生地は『藤氏家伝』によると大和国高市郡藤原(奈良県橿原市) 。また大和国大原(現在の奈良県明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある。

早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。隋・唐に遣唐使として留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。

密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、次に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。

645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。また、唐や新羅からの外交使節の対応にもあたっており、外交責任者でもあったとみられている。

その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。647年大化3年)の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。649年(大化5年)に倉梯麻呂・石川麻呂が薨去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年白雉5年)頃には大紫冠(だいしかん)に昇格した。

669年(天智天皇8年)10月、山科の御猟場に狩りに行き、馬上から転落して背中を強打した。天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている(なお、白村江の戦いが後世の長屋王の変と並んで『藤氏家伝』に記載されていないのは共に藤原氏が関与していた事実を忌避するためであるとする説がある)。天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」のを賜った翌日に逝去した。享年56。

Wikipediaより

これは畿内の日本国の蘇我氏と皇室の内乱の話であり倭国の多利思比孤と太子を蘇我馬子と入鹿と創作した「大化の改新」は無かったと考えた場合 藤原鎌足と蘇我日向の事績を並べてみると田村王(舒明天皇)の即位 蘇我石川麿の殺害において関与していることになります。更に宝姫の息子(天武天皇)の父で田村王の即位(629年) 蘇我石川麿の殺害(649年)更に壬申の乱(672年)に関わり藤原の姓を賜ったとすれば藤原鎌足の事績とかなり被ってくると考えられます。

藤原姓

藤原氏の祖である中臣鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に携わった。その後功績を称えられ、死の直前に天智天皇から藤原朝臣姓を与えられたとされる。藤原の名は鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなむ。通説では、鎌足の子である不比等がその姓を引き継ぎ、以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。

Wikipediaより

推論

ここで藤原姓に関して二つのことが考えられます。

  1. 藤原の姓は鎌足 不比等のみが与えられた姓であるとすると 日向の藤原姓は特例と考えられる。
  2. 鎌足と日向が同一人物である。

藤原氏の前姓 中臣は元性は卜部であり、中臣姓は常陸で六世紀以降に使用されたものと考えられます。更に中臣氏常陸出身説は、「『中臣氏本系帳』や『中臣氏系図』には記載が無く、後世の卜部氏による加筆のため、信用に足らないものである。」とあります。

鎌足の記録では「唐や新羅からの外交使節の対応にもあたっており、外交責任者でもあったとみられている。」とあり「白村江の戦い」以後大宰府師はその為の役職であったとも考えられます。

可能性として蘇我日向が中臣姓を買い 藤原姓を名乗ったと考えても不思議は無いと考えられます。

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