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志賀海神社

福岡県

金印が見つかった志賀海島には全国に存在する安曇族の長 安曇磯良を祀る神社が存在します。

志賀海神社 表津宮

参道

海人族の神社に必ずある御汐井を左右に振ってから参拝です。

末社 印鑰社

印鑰社とは元々印を保管した場所という意味だそうです。祭神の久那土神は「来なと」。悪霊邪気の侵入を防ぐ神のことです。

志賀海神社と文化財
志賀海神社は綿津見三神を祭り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄界灘を臨む博多湾の入口に鎮座し、海人部の伴造として著名な安曇族に奉祀されました。大同元年(806)には安曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位上の神位下の神階が授けられています。平安時代の「小右記」には志賀海神社社司の対栄交通が記され、中・近世には大内氏・黒田氏の加護を受けていたことが当社に伝えられた文書(福岡市指定文化財)によってわかります。以下略 案内版より

ちはやぶる鐘の岬をすぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神

狛犬
山の神 大山祇命
神門

境内

手水舎

由緒

志賀海神社 略紀
祭神左殿:仲津綿津見神 (なかつわたつみのか)左殿相殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)中殿:底津綿津見神 (そこつわたつみのかみ)中殿相殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと)右殿:表津綿津見神 (うはつわたつみのかみ)右殿相殿:応神天皇 (おうじんてんのう)由緒 古来、玄海灘に臨む交通の要所として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」とたたえられ、海の守護神として篤(あつ)く信仰されている。 御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が筑紫の日向の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原において禊祓(みそぎはらい)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族(しんえいあずみぞく)によって奉斎(ほうさい)されている。 御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢(けがれ)・厄(やく)・災(わざわい)・罪をはらい清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現(けんげん)されている。

当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。2世紀(遅くとも4世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、あわせて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀(ほうし)されたと伝えられる。 むかしの社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元冦の役(げんこうのえき)など国家の非常の際に嚇々(かくかく)たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(1927年)には官幣小社の処遇をうけている。  ~以下略~ 案内版より 

志賀海島だけに鹿の角が奉納されています。

拝殿・本殿

拝殿
本殿

神紋は左三つ巴 千木はありません。

亀石・遥拝所

香椎宮・高良大社を向いています。

摂社

 摂社 今宮神社 御祭神 宇都志日金拆命・住吉三神・天兒屋根命・阿曇磯良丸をはじめ神孫阿曇諸神御神徳 盗難除け・航海船舶の安全・出世開運・合格御由緒 「古事記」に「此の三柱の綿津見の神は阿曇の連等が祖神と以ちいつく神なり。かれ、阿曇の連等は、その綿津見の神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。」 と記され、綿津見三神を奉祭するのは宇都志日金拆命の子孫である阿曇家となっている。当社は代々阿曇家が宮司を奉職しており阿曇家の祖神である宇都志日金拆命は綿津見三神に仕える者の祖神として奉祀されている。  また、神功皇后三韓出兵の際に出現された阿曇磯良丸命は当地龍宮にて干珠満珠を借り賜って海上指揮に仕えたと伝えられている。 案内版より

穂高神社 画像はお借りしました。

この祭神の宇都志日金拆命とは、長野県の安曇野の穂高神社の祭神 穂高彦のことで安曇族はこの人の子孫であると書かれています。

志賀海神社 中津宮

この中津宮(勝馬宮)は通称中津宮古墳の上に建っています。

この古墳は、7世紀ごろ(古墳時代)に造られたもので当地の海人集団の首長墓の墓であったそうです。

御祭神 仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)住吉と共に出現された和多津美三神の一人「高良玉垂神秘書」には神武天皇と記されています。

志賀海神社 沖津宮

画像はお借りしました。

歩射祭で射手を務める若者達は、胴結舞が終わると志賀島北端の勝馬にある沖津宮、中津宮に参拝をする。 若者たちは、しばし焚火の日で体を温めるとふんどし一枚の姿で 海岸から100m程沖合にある沖津宮目指し、寒風が吹く冬の海を騎馬を組んで進んでいく。

岩場でガラ藻を採った若者は、沖津宮に参拝をして戻ってくる。

昔し、志賀島有志8人が安曇氏のもと8人の射手になり土蜘蛛を退治したことに由来し、無病息災、五穀豊穣を祈念して、その年に選ばれた射手達が6尺9寸の大的を土蜘蛛に見立てて、行われる由緒ある祭りである。

委奴国王金印

実はこの島は金印が発見された島なのです。

金印の発見
天明4(1784)年2月23日、今日の暦では4月12日にあたります。花見が終わって、さあ頑張ろうという時節です。しかしこの頃、長雨や大風など異常気象が相次いだと記録にありますから、そうした余裕はなかったのかもしれません。  発見者は一般には口上書を提出した甚兵衛(じんべえ)となっています。しかし1830年代に著された仙崖和尚の『志賀島小幅』には秀治と喜平と書き添えられています。このほか『万歴家内年鑑』には秀治と記されていますから、彼らは甚兵衛の奉公人であったとも考えられます。 

その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。

この五文字から漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており金印そのの持ち主は帥升と記されています。

帥升


安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。

『後漢書』「巻八十五」の「東夷伝」の「第七十五」


後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王帥升至

『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条

後漢書に言われていることには、 安帝の永初元年、倭面上國王帥升が来た。


東漢書ノ伝二曰…倭面國此方ノ男女皆面ヲ點シ身を文カサル故二面ノ字ヲ加テ之呼フ 東漢書二曰安帝ノ永初元年倭面上國王師升等生口百六十人ヲ獻ス 

東漢書に言われていることには、…倭面國は、その国の男女は皆、面(顔)と身体に入れ墨をしている。よって面の字を加えてこれ(国の名?)を呼ぶ 東漢書に言われていることには、安帝の永初元年、倭面上國王師升等が生口160人を献じた。

多少の違いは有りますが書面では師升が160人の奴隷を漢の安帝に献上し謁見を求めたことその国の男女の顔と体には刺青があったことが記されています。

『日本書紀纂疏』「一」 

分析

では何故 志賀海神社のあるこの島にこの金印があったのかというと、その答えは安曇磯良の経歴にあるようです。

上の赤の🔲で囲った人物が後漢書に書かれている師升で下の🔲が安曇磯良です。
つまりこの二人の関係は直系の祖父とひ孫であると考えています。こじつけのようですが、師升=水晶=豊玉彦かもしれません。もしかしたら唐に渡った蟻通神社の中将のことかもしれません。直系の孫がその印を引き継ぎ保管していたと考えても不思議は無く、志賀海神社にあった印鑰社はその証かもしれません。

山誉め祭 神楽歌

最後に志賀海神社に伝わる山誉め祭、神楽歌をご紹介します。君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまであれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命<いのち> 千歳<せんざい>という花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよいるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな— 山誉め祭、神楽歌 

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