西宮神社

福岡県

  「福男」が選ばれる神社として毎年ニュースになる西宮神社をご存じの方は多くいらしゃいますが、ここが恵比須神社の総本社として認識される方はあまりいらしゃらないとおもいます。

画像はお借りしました。

西宮のえびす様は、古くは茅渟(ちぬの)海(うみ)と云われた大阪湾の、神戸・和田岬の沖より出現された御神像を、西宮・鳴尾の漁師がお祀りしていましたが、御神託によりそこから西の方、この西宮にお遷し、祭られたのが起源と伝えられております。

西宮神社HPより

では、それ以前は何処に祀られていたかというと国譲りが行なわれた大己貴神社の直ぐ近く福岡県朝倉市甘木町にその起源を求めることができそうです。

恵比須の正体

  1. 「高良玉垂神秘密書」において彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大神
  2.  赤司八幡宮の縁起には豊玉姫の別名は三女神の田心姫である。
  3.  大己貴に嫁いだ田心姫には連子がいて八重事代主(蛭子神)である。

以上の答えから対馬から姪浜に上陸し、前原で子を授かり大己貴と共に国を造った武鵜草葺不合尊こそが別名 住吉大神 八重事代主 恵比須神であるという答えが導き出されます。

その後大己貴は英彦山で新たな国を造りますが、天忍穂耳により立ち退きを命ぜられます。
そして向かった先が、宗像の許斐山であると伝わります。

そして大己貴と別れた恵比須が移り住んだのが西宮と呼ばれる地でした。

新町西宮神社

こちらの神社は、大己貴神社から少し日田に向かった場所にあります。神紋は三ッ柏ですが由緒書も
縁起も記されていません。しいていえば西宮の名前と恵比須神を祀っていることぐらいで、拝殿・本殿にもそれほど情報を得ることができませんでした。

恵比須町西宮神社

こちらの神社は更に日田に近い位置にありますが、まるで昔の銭湯のように路地の奥に鎮座していました。

しかしここには驚くべき事実が由緒書にしるされていたのでそれをご紹介します。

西宮大神宮の由来

西の宮大神宮の由来 福岡県甘木市恵比須町
1.恵比須について
この町の西の宮恵比須宮に『恵比須袋』と申す社宝があります。又の名を「宝袋」「福寿袋」「砂金袋」「開かずの袋」などと呼ばれます。煤(すす)けた布袋で「明治29年宝袋」と黒書きされ、その中に又袋あります。この袋には「明治2年福寿」とあり、更に又袋があって「宝暦3年(1753)えびす袋」と誌(しる)されています。さて、これからが「開かずの袋」で、この中には、この御社の由来、即ち縁起が秘められているといわれます。

2.縁起秘聞について
この恵比須袋に秘められた縁起は「開かずの袋」のことで、その内容は知る由もないが、昔から、その写しが伝えられています。その写しは名ずけて「恵比須袋縁起秘聞」といわれています。
今からその秘聞によって、この社の由来を申し上げます。

3.筑紫夜須の西の宮について
神代の昔、恵比須大神は、小舟にお乗りになって、東の海、南の海、北の海と漂わせ給い、はては西の海にお着きになりました。ここで、舟をお捨てになった大神は、筑紫路をさまよい、清浄な霊域をさがしていられますと夜須川(今の甘木川の古名)の辺りがお気に召され、ここを仮の宮居として、3年の年月をお過ごしになりました。ときに、この地方が”西の国”にあったので、この宮居を「西の宮」と呼ばれました。かつ又、この霊域が”筑紫の夜須にあったため、精しくは「筑紫夜須の西の宮大神宮」と号し、略して、「甘木西の宮大神宮」と申すようになりました。当「恵比須袋縁起秘聞」には「これぞ日の本(やまと)恵比須の始めなり・・・。」と添え書きがなされています。以上が当「西の宮恵比須宮」そもそもの由来であります。

4.摂津の西の宮について
その後、推古天皇の御代、聖徳太子は、恵比須大神をもって、特に商売繁盛の守護神と崇め給いました。更に、その後、福神として恵比須信仰が盛んとなり、摂津の国(大阪の西北部・兵庫県の南東部)に恵比須宮を創建ありし際、そのかみの筑紫路の故事にならい、社名も「西の大神宮」と称するようになりました。

5.甘木西の宮再興について
この様に由緒深き郷土の宮跡も、たびたびの水渦や風害にあって、荒廃しましたが、この甘木の里に筑紫路随一の市易と商買が繁盛するに及び「神代の昔、この地にお鎮まりになっていた西の宮の御霊験であろう。」とし、又この神様の霊夢を蒙る者もあって、ここに旧跡を相し、社殿の復興を見るに至りました。尚、町民で製蜂を業とする某氏が、摂津の西の宮から、”金幣”を勧請することもあり、その時の幸運な挿話も伝えられて、社運は益々あらたかになりました。

6.恵比須祭りと福膳の神事について
宝暦の頃(1751年代)、有名な”福膳”の神事が始められました。これは12月3日(昔は霜月3日)の祭典(商店では盛大な蛭子(えびす)大売出し)で、参拝者に、恵比須神にゆかりの芽出たい献立の福膳を供する神事で、家内安全商売繁昌の縁起を祝福するものであります。因みに、この行事は商店の大売出しと共に盛んに継続されています。

7.本社の社宝と文化財
金幣、神石、神鏡、恵比須袋、西の宮大神宮縁起、神面、獅子、太鼓、絵馬(三顧筆恵比須)、俳句の額2面(約60句)、石の唐戸(明和7年)、狛犬、石灯籠、石鳥居、手洗石・・・その他
 
昭和48年12月3日 恵比須町

この由来書には摂津の縁起の欠けた部分を補う由来が記されています。

拝殿・本殿

ちょっと見た目には銭湯に見えます。

狛犬

拝殿

神紋は三ッ柏

彦波瀲武鵜草葺不合尊(八重事代主 恵比須神)の統治範囲

伝承縁起から彦波瀲武鵜草葺不合尊(八重事代主 恵比須神)の統治範囲について考えてみましょう。

  1. まず最初に挙げられるのが、築後一宮 高良大社です。ここの勢力範囲は現在のほぼ久留米市~大宰府市と同じ位の範囲であると考えられます。
  2. 彦波瀲武鵜草葺不合尊の息子と娘される川上タケル・淀姫ですが、佐賀大和付近から嬉野近辺までその神社は分布していることからここまでは確実に勢力範囲であったことが伺えます。
  3. 金印 志賀海神社のある志賀海島も祭神 安曇磯良となっていることからここもその傘下であったことが伺えます。
  4. 「日本書紀」に仲哀八年一月四日に仲哀天皇と神功皇后が佐波(山口市)から香椎宮に向けて船出した際の水先案内人は岡県主は熊鰐であると記してある。このことから少なくとも関門海峡~遠賀までは熊鰐の勢力範囲であったことが伺えます。この熊鰐というのはどうも事代主のことであるそうです。

以上のことを地図に落とすと、彼の子孫の勢力範囲はほぼ福岡 佐賀県全域に近い範囲を統治していたようです。

熊鰐の子孫が宮司を務める豊山八幡宮
八幡の春日神社等も名を変え波多野姓ですが宮司を務めていらっしゃいます。

また壱岐・対馬・伊都国などは彼の祖父 豊玉彥の統治下で飯塚近辺は彼の父 饒速日(彦火々出見)宗像近辺が大己貴の統治下であったと考えるとほぼ福岡・佐賀にかけては彼の勢力範囲内と考えてもいいのではないかと考えます。

つまりこの全ての地域を統治していた可能性が高いのが、彦波瀲武鵜草葺不合尊の後胤 高良玉垂命ということになります。

しかしこの一族が河内に進出するのは、次の世代になるようです。







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