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宗像三女伸の正体 レポートNO2

福岡県

宗像三女神とは
 三女神は天照大神と素戔嗚の「うけい」によって生まれ「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」とのことからそれぞれの地で祀られるようになったと云われる神です。

最初の降臨地 六嶽神社 福岡県鞍手郡鞍手町室木893

六嶽を上宮としていて、由緒は宗像三女神が影向(ようごう)(神が一時姿を現すこと)された霊地である。成務天皇7年、室木の里の里長(さとおさ)の長田彦が神勅を頂いて、この山上に神籬(ひもろぎ)を営んだ。
これがこの神社の始まりで、昔は堂々とした社殿だったが、享禄年間に燃えて、社殿が無くなってしまったので、御神体を下宮に移してこれがこの神社の始まりで、昔は堂々とした社殿だったが、享禄年間に燃えて、社殿が無くなってしまったので、御神体を下宮に移して

『福岡県神社誌』

神のうけいから人が誕生するわけが無く、三女神も元々は個別の神でした。本来降臨地も別々で本名も別に持っていました。

久留米の築後一宮 高良大社 赤司八幡宮に伝わる「高良玉垂神秘書」「止誉比咩神社本跡縁記」

長女 田心姫(豊玉姫)
道中の中瀛宮(なかつみや)の田心姫は、筑紫水沼君が祭る神、筑後国御井郡河北庄止誉比咩神社、今の赤司八幡神社これなり。

豊玉姫

田心姫の元々の名前は豊玉姫 彦火々出見に嫁ぎ一子 鸕鶿草葺不合尊を設けた後 大己貴にぎ下照姫を生みました。

伝承
糸島姫島
「産の穴(うそのあな、うぶのあな)」は姫島神社に祭られている豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と生島神社の女神が生まれた場所だとされているそうです。

糸島姫島産の穴(うそのあな、うぶのあな)

和多津見神社
釣針を探しに来た山幸と出会い、二人の間にはウガヤフキアエズが生まれましたが、出産を見られた為 別れることになりました。

赤司八幡神社
 築後国御井郡(現在福岡県久留米市北野町赤司)に鎮座する赤司八幡神社は、縁起(「止興比咩神社縁起」)によると、神代の昔天照大神様が御子神の道主貴(比咩三女神)を筑紫平野の中心部・築後川中流域の河北の地(筑紫の道中)に降居せしめられたのが始まりと伝えています。

英彦山神宮
英彦山は古代は荒れ地であったが、大己貴と三女伸によって荒れ地は田畑になった。そこに大和から天照大神の御子と名乗る天忍骨尊(建御雷之男神)が現れ「土地を譲れ!」と迫った。その結果大己貴と三女神は土地を譲り宗像の許斐山に移った。

的原神社 福岡県福津市八並1020
英彦山を追われた大己貴命と田心姫と市杵島姫命は宗像の許斐山に移り住みます。そこで二人の間に下照姫が産まれました。そこにも外敵が現れますが大己貴命達はその外敵を退けこの地を護ったようです。

於婆宮 福岡県北九州市小倉南区6
従来、蒲生村虹山(巣山)の峯に多紀理比売命(於婆姑比留売神)多岐都比売命・市島比売命の三女神(宗像三女神)が天降り「我、永く此地を守らん」と告げた。そこで里人」は紫の池の辺りに多紀理比売命を祀り 虹山の山頂に(蒲生宮)多岐都比売命 紫の池の北に市杵島比売命を祀った。

於婆宮 福岡県北九州市小倉南区6

次女 市杵島姫命(スセリ姫)
遠瀛宮(おきつみや)の市杵嶋姫は、筑紫胸肩君が祭る神、筑前国宗像郡宗像神社これなり。

伝承
英彦山神宮
英彦山は古代は荒れ地であったが、大己貴と三女伸によって荒れ地は田畑になった。そこに大和から天照大神の御子と名乗る天忍骨尊(建御雷之男神)が現れ「土地を譲れ!」と迫った。」その結果大己貴と三女神は土地を譲り宗像の許斐山に移り市杵島姫命が中宮に鎮座した。


宗像大社
英彦山神宮の時は天忍骨尊の妻で息子には大山咋がいたが、連子として大己貴に嫁ぎました。

蛭子社(八重事代主)


松尾社(大山咋)

宗像大社の一・二・三殿の間に蛭子社(八重事代主) 松尾社(大山咋)の摂社がある。

蛭子社(八重事代主)は「高良玉垂神秘書」に記される住吉三神の父「記紀」おいては伊邪那岐と記されていますが、同書では住吉三神の親はウガヤフキアエズこと住吉大神と記されており系図で見ると豊玉姫=田心姫の息子の事代主のことであると考えられます。

百嶋神社系図

又 大山咋は市杵島姫命と天忍骨耳の息子であることがわかります。

三女 湍津姫(鴨玉依姫)
海濱宮(へつみや)の湍津姫(鴨玉依姫)は葦原中国の宇佐嶋に降居され、豊前国宇佐郡の宇佐宮八幡比咩神社これなり。

大元神社

すなはち日神(ひのかみ)の生(あ)れませる三女神(みはしらのめがみ)を以ては筑紫洲(つくしのしま)に降(ふ)らしむ。因(より)て敎(をし)へ曰(まを)ししく。汝(いまし)三神(みはしらのかみ)、宜(よろ)しく道の中(みちのなか)に 降居(くだりま)して、天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて 天孫(あめみま)に 祭(いつ)かれよ。・・・(中略)・・・すなはち日神の生れまする三女神(みはしらのめがみ)を以(もち)ては。葦原中國(あしはらなかつくに)の宇佐嶋(うさしま)に使降居(つかひくだりゐ)さしむ。今(いま)、海の北の道の中に在(ゐま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(い)ふ。これ筑紫水沼君(つくしのみぬまのきみ)等(ら)の祭(いつ)く神これなり。

「日本書紀」

田心姫と湍津姫を宗像に祭祀し、祭祀の配置換えがありました。
宇佐宮八幡比咩神社が宇佐神宮となった時、「比売大神」の湍津姫を現社殿の海濱宮(辺津宮)に祀り、市杵嶋姫を中瀛宮(中津宮)に配置変えし、田心姫を「海北の道主貴」として遠瀛宮(沖津宮)に祀ることになったのです。
これが宗像の三女神の誕生です。

田心姫の伝承
市杵島姫命の伝承
湍津姫の伝承

補足で大国主の伝承もご紹介します。

日隅宮とは、別名 出雲大社のことで「日本書紀」では国譲りに応じた大己貴に対し「あなたが今後住まうべき天日隅宮(あまのひすみのみや)は、今、私がつくりましょう。その敷地の規模は、千尋もあるたく縄を百八十結びにしっかり結んで設定しよう。その宮殿建築の制式は、柱は高く太く、板は広く厚くしよう」といった宮のことです。

日本書記

出雲大社は明治四年までは「杵築大社」と称していた「丹波風土紀」逸文として「元明天皇和銅年中、大国主御一柱のみ島根の杵築に移す。」との記述がある。(出雲大神宮伝承)

大国主伝承

甘木の大己貴神社が日隅宮であれば「記紀」通りなら大己貴の終焉の地はここですが、その後に英彦山→宗像または英彦山→宗像→甘木かは不明ですが杵築大社でないことは明確です。

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