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妻垣神社 足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)

大分県

足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)とは?

  • 豊の国の宇沙に着いたとき、宇沙の住民の宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)が足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って大御饗(=食事)を献上しました。

そのとき菟狹国造(ウサノクニノミヤツコ)の祖先の菟狹津彦・菟狹津媛(ウサツヒコウサツヒメ)が居ました。菟狹の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って、(神武天皇を)奉り、宴会をしました。

日本書紀より
古事記より
足一騰宮の候補地

 「記紀」に足一騰宮と記される候補地は三か所あり宇佐市拝田説 宇佐市宇佐説 宇佐市安心院町妻垣説があります。

足一騰宮想像図

本居宣長によると「宮の一方は宇佐川の岸に片かけて構へ、一方は流れの中に、大きなる柱を唯一たてるなり。と記されています。

妻垣神社

妻垣神社

妻垣神社はその中の候補地の一つで安心院(あじむ)に存在します。安心院という地名の由来については種々の説があるが、一説には 芦 が生えていたことから芦生(あしぶ)の里といったのが後に「安心」に転じ、中世に 宇佐神宮 の 荘園 となって倉院が置かれたことから「院」をつけて「安心院」と書かれるようになったという。

由緒

妻垣神社由緒

妻垣神社由緒
鎮座地 宇佐市安心院町妻垣字大門二〇三番地
祭神 比咩大神(玉依姫)八幡大神(応神天皇)神功皇后
元宮
足一騰宮(あしひとつあがりのみや) この妻垣の地は、わが国最古の歴史書「古事記」にも「日本書記」にも神武天皇がこの地に立ち寄られたことが記されています。神武東征のおり、宇佐国造の祖、宇佐津彦命と宇佐津姫命の兄妹がお迎えし、足一騰宮を建てて歓待申し上げたのです。
比咩大神
神武天皇がこの地に滞在なさったおり天皇みずから祭祀を行われ、母后玉依姫命を、ここ共鑰(ともかぎ)山(別名-妻垣山)にお祀りし、そこを「足一騰宮」と名付けられました。このことより当社の主祭神は玉依姫命であり、比咩大神という神名で人々に称えられました。また天平5年(七三三)比咩大神は宇佐宮二之御殿に祀られます。このことより当社は、宇佐宮二之御殿の元宮ともいわれています。
八幡大神
宇佐宮の「八幡宇佐宮御託宣集」によれば天平神護元年(七五六)八幡大神こと八幡大菩薩はこの地に神幸し比咩大神と語り合われた、とあります。八幡大菩薩が御託宣を下し、勅使石川朝臣豊成に命じて神殿を共鑰山麓に創建させ、比咩大神と八幡大神をお祀りしたのが、妻垣神社のはじまりであります。
神功皇后
天長年間(824~834)に宇佐宮三之御殿より神功皇后を勧請し、お祀り申し上げました。以来、当社は比咩大神、八幡大神、神功皇后の三柱の神を祀って八幡社と号し、宇佐宮八ヶ社の一社となております。
嘉暦3年(一三二八)足利尊氏は武運の再興を願って宇佐宮に参籠し、当社で流鏑馬の神事をとり行いました。天正9年(一五八一)豊後大友軍の兵火によって社殿、神宮寺のすべてを焼失しましたが、その後、中津城主黒田長政公によって社殿が再建されました。
明治12年(1879)9月17日、当社は縣社に列せられ、宇佐両院の宗社として今日に至っております。

境内由緒書より
松本清張と妻垣神社

松本清張は作家としてデビューする前の無名な時代、故郷北九州において朝日新聞西部支社の臨時嘱託(のちに社員となる)として勤め生計をたてていました。
古代史が大好きであった清張は、休暇を利用しては愛用の自転車にまたがり、遺跡・史跡が残る地域を廻るのを趣味としていました。
そんな中、朝日新聞東京本社記者石川銀次郎氏より我が国最古の歴史書「古事記」について教授を受け、未だ特定されていない「足一騰宮(一柱騰宮)」を調査すべく、昭和17年(1942)、安心院を訪れ、伝承が残る当社に立ち寄ります。
阿曇一族の形跡が色濃く残る龍王山や妻垣山(共鑰山)。そして古代ロマンに満ちた妻垣神社や騰宮学館が深く印象に残り、のちの小説『陸行水行』を執筆しています。

妻垣神社HPより

境内

貴船社

貴船社 祭神 闇龗神(くらおかみのかみ)・高龗神(たかおかみのかみ)・闇御津羽神(くらおかみのかみ)

手水舎
灯篭 橘紋

拝殿・本殿

不思議なことに神門の神紋は左三つ巴 灯篭は橘 本殿屋根三五の桐 花菱紋です。これだけでも海神(安曇)族の神社であるとわかります。

共鑰山の磐蔵

共鑰山の磐蔵

神武天皇の御母玉依姫命を祀る足一騰宮は、共鑰山の八合目に社ではなく玉垣に囲まれた大石として鎮座します。

足一の印岩

足一の印岩

足一(あしひとつ)の印岩(復元)
昔、神武天皇様の一行が、宇佐都彦命・宇佐都姫命に招かれて、この処に来たとき、この土地があまりにも素晴らしかったので、御母玉依姫命の御霊(みたま)をお祭りしたところ、玉依姫様が川中の岩の上に御姿を現され、信心を忘れさせないように、この岩に足一(あしひとつ)の印を付けておくと告げられて、一気に共鑰山(ともかきやま)に騰がられた事が、足一騰宮のはじまりであります。
                    奉納 浜松市 金子吉尾
                    平成21年6月吉日  妻垣神社

立て看板より

分析

宇佐八ヶ社

宇佐八ヶ社


宇佐神宮が現在地に鎮座するまでに八ヶ所の経た場所を宇佐八ヶ社といいます。①「田笛神社」豊後高田市犬田、②「鷹居八幡社」宇佐市上田、③「乙咩社」宇佐市下乙女宮本、④「大根川神社」宇佐市富山、⑤「酒井泉社」宇佐市辛島、⑥「郡瀬社」宇佐市樋田字瀬社、⑦「妻垣神社」宇佐市安心院妻垣、⑧「小山田社」宇佐市小向野

更に宇佐八幡宮の創建に関わったのは大神氏であり宇佐の土地に有りながら宇佐氏が八幡宮に関わったのは平安時代以降であることから足一騰宮でないことが想像されます。

妻垣神社の由来

何故足一騰宮を妻垣神社と呼ぶかについては諸説あります。

神武天皇が豊の国の宇沙に着いたとき、宇沙の住民の宇沙都比古(ウサツヒコ)・豊の国の宇沙に着いたとき、宇沙の住民の宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)が足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って大御饗(=食事)を献上しました。が足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って大御饗(=食事)を献上しました。

その後 神武天皇と宇沙都比売が足一騰宮で住まわれたことから妻垣という説があります。

更に別の説が天日鉾(素戔嗚)と赤留姫(磐永姫)が住まわれ生まれた市杵島姫命の子 神武天皇(崇神天皇)の父 大山咋が生まれた場所にその妻 玉依姫を祀ったとも考えられます。

つまり神紋からわかることは、赤留姫を祀る場所に玉依姫を祀り、応神・神功皇后を祀ったことがわかります。

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