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佃収説2(日本建国前夜)

天武天皇

九州年号

「襲国偽僣考」鶴峯 戊辰著に「九州年号」が書かれている。九州年号とは「倭王武」が日本で初めて使用したとされる年号で最初の年号は「善記」である。

「善記」襲の元年 継体天皇十六年壬寅 梁の普通三年にあたる。(中略)善記四年に終わる。「襲国偽僣考」

本来雄略の年号「善記」の後は清寧~以武烈まで元号が続くはずだが「善記」のあとは「正和」以後「定和」「常色」と継体の後の年号が続く 平行して物部麁鹿火王一族の「殷倒」「僧聴」「明要」が存在する((図1)

これは継体の時代に捌の政権があったと考えるべきである。

物部麁鹿火王権

物部麁鹿火は筑紫国造磐井と御井郡(福岡県三井郡)で戦い勝利した つまり下剋上である。

「果たして疆場を定める」とある。「長門(山口県)より以東」は継体天皇の領土になり「筑紫より以西は物部麁鹿火の領土になった。」                           「日本書紀」

磐井の乱は「継体二一年(527年)物部麁鹿火に討たせたとあるが、継体天皇の父は倭王興の命により「熊本県宇土地方」から近江(滋賀)の派遣された「倭王権」の将軍とあるので継体が物部麁鹿火を派遣して磐井を討ったというのは捏造である。

継体天皇の崩御は丁未(527年)でその後九州年号「殷倒」に続くこれが物部麁鹿火王権の年号である。

物部麁鹿火の地位は「大連」とあるので倭王権では地位は低かったと考えられる。

物部麁鹿火の本拠地

磐井の子 葛子は「糟屋の屯倉を献じ、死罪を逃れた。」とあるので物部麁鹿火の本拠地は福岡県東区の多々良川の南側

物部木蓮子は「難波屯倉と宅媛を献上した。」とあるので多々良川の北側

以下のことから嘉穂郡は本拠地であったと考えられる。

王塚古墳(物部麁鹿火の墓

桂川王塚古墳が時代も合い物部麁鹿火の墓であったと考えられる。

前方後円墳
全長約86m、高さ約9.5m装飾古墳
馬具・武器・銅鏡・装飾品
土器類6世紀中頃

仏教伝来

「元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳」


「大倭国の仏法(ほとけののり)」からこの時代に伝来したと考えられる。


「斯帰嶋宮(しきしまのみや)の天下を治(をさ)めたまひし天国案春岐広庭(あまくにおしはるきひろには)の天皇(すめらみこと)の御世(みよ)自(よ)り創(はじ)む。
蘇我大臣稲目宿祢(そがのおほまちきみいなめのすくね)が仕奉(つかへまつ)りし時、天下を治めたまへる七年(ななとせ)、歳次戊午(つちのえうま)〔538〕十二月(しはす)に度(わた)り来たりて、百済国(くたらのくに)の聖明王(せいめいわう)の時、太子(たいし)の像(みかた)と并(ならびに)灌仏(かむぶつの、ほとけをすすぐ)器(うつはもの)一具(ひとそろへ)及び説仏起書(せつぶつきしよ、ほとけのおこりをとけるふみ)の巻(まき)一筐(ひとはこ)度(わた)りき。」

ここにある「治天下七年歳次戌牛十二月」とは538年のことで仏教伝来は物部麁鹿火時代のことと考えられる。

物部麁鹿火王権は三代で阿毎王権に政権を譲ったと考えられる。

阿毎王権

欽明)十三年(552年)十月、百済の聖明王、西部姫氏達率怒唎斬致契等を遣わし、釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干・経論若干巻を献ず。「是法は諸法の中においても最も殊勝なり(中略)という。

天皇、聞き己わりて、歓喜し踊り跳ね、使者に対して云う「朕、昔よりこのかた、未だかつて是の如き微妙の法を聞くことを得ず。然るに、朕自ら決めえず。」  「日本書紀」

これが552年十月仏教伝来説だが、この時天皇は物部麁鹿火ではない

新王権年号

  1. 貴楽 552年~569年 
  2. 金光 570年~575年 
  3. 賢棲 576年~580年 
  4. 鏡常 581年~584年 
  5. 勝照 585年~588年 
  6. 政端 589年~593年 
  7. 告貴 594年~600年 
  8. 願転 601年~604年 
  9. 光元 605年~610年

物部麁鹿火の年号は552年の明要で終わっている。

新王権は561年に「難波の大郡」で外国の賓客をもてなす。

「難波大郡」とは福岡県東区多々良の上流である。608年隋から裴世清が来る。この迎えた場所が海石榴市の術(ちまた)である。

「隋書」倭人伝官位

内官有十二等 一日大徳 次小徳 次大仁 次大義 次小義 次大礼 次小礼 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定数          

「日本書紀」「推古紀」

「隋書」倭人伝官位の記載と同じ

大春日臣同祖。(中略)大徳小野臣妹子。家干近江国志賀小野村。因以為氏。日本紀合小野妹子の官位は大徳であるから阿毎王権の官職と同じである。つまり阿毎王権の人物である。

555年「蘇我稲目」を吉備に派遣 吉備五郡に「白猪屯倉」を設置

蘇我稲目を吉備に派遣したのも阿毎王権である。

物部尾輿の墓

新延大塚古墳(6世紀後半)

直径約30m・高さ約7mの円墳
横穴式石室で全長約12m
出土遺物 馬具(鞍・鐙・杏葉など)や鉄鏃、須恵器

多利思比思比古の墓 銀冠古墳(6世紀後半~7世紀)

福岡県鞍手郡鞍手町 八尋大谷

円墳, 径18m, 高さ3m 横穴式石室 銀製天冠、 金製耳飾り、六花形飾り金具、六花形杏葉、雲珠など馬具 鉄製武器、他

銀製天冠は、1962年に銀冠塚古墳で出土しました。 国内でも大陸でも、類似の冠は見つかっていない。純銀製の冠は国内で唯一のもの。法隆寺の夢殿の秘仏である救世薬王菩薩の宝冠の文様と基本的に同一である。

古月横穴(6世紀後半-7世紀)

鞍手町大字古門

金環(耳飾り)x5、銀環(耳飾り)x3,、他17、メノウ製勾玉、○タマキ貝製腕輪(釧)、玉類(首飾り) 馬具, 滑石製紡錘車 直刀, 鉄剣, 鉄鏃, 須恵器, 土師器

阿毎王権とは

十三世物部尾輿 貴楽 552年~569年 十四世大市御狩連公(敏達)金光 570年~575年 十五世 物部大人連公(押坂彦人大人大兄)多利思比狐 勝照 585年~588年 続

つまり欽明天皇とは物部御輿であり阿毎王権の功績は仏教伝来と多利思比古(敏達)の遣隋使 冠位十二階である。

日羅事件

阿毎王権は日羅に「百済の国政」について質問した。

復、阿部目臣・物部贄子連・大伴糖手連を遣わし、国政を日羅に問う。

内容は高句麗や新羅に攻められている百済が築城(列島)に移りたいのかと問う内容である。

これに日羅は百済のことを喋りすぎて従者に殺害された。

日羅は小郡 「妻子・水手等を以て石川に居らしむ」石川とは三根郡寒水川である。

豊王権

「隋書 倭人伝」の阿毎多利思比思比古の記載がある同時代「記紀」には用明天皇 推古天皇の記載がある。

九州年号では物部尾輿王権(阿毎王権)と同時期に別の年号が存在する。それを仮称 豊王権とする。

豊王権の年号は「和重」でありその王の名は用明天皇である。用明天皇の宮は「磐余の池辺の双槻(なみつき)の宮」である。

用明天皇の在位は「585年九月~587年四月」の二年間である。「襲国偽僣考」の「阿毎王権」の年号「勝照」年号の説明に「用明帝之時、和重二年で終わる」とある。

つまり用明天皇の年号は「和重」である。

用明天皇は「古事記」に「崩年干支」があり「此の天皇、丁未四月十五日崩」とある。この時代「干支」を用い年月日を表すのは中国のみであることから中国からの渡来人と考えられる。

用明天皇の宮「磐余の池辺の双槻(なみつき)の宮」

磐余とは応神天皇の時代 阿智王の項に「大和国檜隈郷を賜り」とある大和には檜隈郷は無い 阿智王が賜った「檜隈」は「日の隈」(鳥栖の朝日山の麓 日の隈)と考えられる。

「磐余村」は「水間の君が献じた養鳥人等を以て軽村・磐余村の二か所に安置す。」とある「磐余村」現在の「鳥栖市神辺」辺りと考えられる。

用明・推古天皇はおそらく磐余(石寸)村主の子孫と考えられる。

穴穂部皇子の乱

敏達天皇14年(585年)8月、兄・敏達天皇が崩御し、殯宮で葬儀が行われた際に「何故に死する王に仕え、生きる王(自分)に仕えないのか」と憤慨した。ところが、同年9月に大臣・蘇我馬子の推す大兄皇子(用明天皇)が即位したため、これに対抗し大連・物部守屋と結んだ。~中略~に詐て逆臣を殺さむとす。」逆臣を殺すと云い用明天皇を殺したと記している。

用明天皇の死去は「古事記」「日本書紀」とも丁未四月十五日 587年四月である。

その後 穴穂部皇子は蘇我馬子により殺される。

「穴穂部皇子と宅部皇子の此の二皇子は用明天皇の二兄弟なり」つまり用明を殺して王位に付こうとしたが馬子に殺されたわけである。

その後、推古天皇「葛城の豊浦」(肥前三根郡葛城豊浦)と蘇我馬子「小治田」の土地を交換し豊王権を再興した。

推古天皇の墓

「大野の岡の上」に埋葬されたとある。これは朝日山であると考えられる。

この王権の和風諡号には豊日の名が付くのが特徴である。

名前からも判るように敏達天皇(阿毎王権)と用明天皇(豊王権)は兄弟ではない。

その後 推古天皇の墓は「大野の岡」から「磯長の大稜」に用明天皇の墓は「科長の中稜」に移された。

「此の此の天皇丁未年四月十五日崩、御陵は石寸の掖上に在り、後に科長の中稜に還すなり。」    「古事記」

孝徳天皇

「皇極天皇と孝徳天皇は同母弟なり」と記されるが、皇極天皇は上宮王家 孝徳天皇は用明天皇の子 多米王の子 用明天皇の孫でこれも兄弟ではない。

用明天皇は蘇我稲目(阿毎王権)の娘を娶り多米皇子を産みその子が孝徳天皇である。

孝徳天皇

「皇極天皇と孝徳天皇は同母弟なり」と記されるが、皇極天皇は上宮王家 孝徳天皇は用明天皇の子 多米王の子 用明天皇の孫である。

用明天皇は蘇我稲目(阿毎王権)の娘を娶り多米皇子を産みその子が孝徳天皇である。

  • 用明天皇の和風諡号は橘豊日天皇
  • 孝徳天皇の和風諡号は天萬豊日天皇

名前からも直系であることが判る。

多米王の母 石寸名(いしきな)

用明天皇は蘇我稲目の娘を娶り多米皇子を生む。

「蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名をたてて殯と為す。是れ田日皇子を生む(豊浦皇子)

用明天皇の子が多米皇子 その子が孝徳天皇である 孝徳天皇は蘇我の血を引いている。

古人大兄皇子

古人大兄皇子の系図

舒明天皇は蘇我馬子の娘 法堤郎媛を娶り「古人大兄皇子」を生む 古人大兄皇子は蘇我馬子の孫である。

古人大兄皇子の反乱(乙巳の変 佃説)645年

  • 古人大兄皇子 古人大兄皇子謀反
  • 645年11月中大兄皇子に討たれる。

蘇我氏が滅ぼされたことによる反乱であるが、中大兄皇子に討たれる。

孝徳天皇の難波宮と豊王権の古墳

645年11月古人大兄皇子が中大兄皇子が討たれたことにより、蘇我氏の血を引く自分が討たれることを恐れ「肥前の磐余」から「難波」へ移る。

「孝徳(大化)元年(645年)十二月、天皇、都を難波長柄豊崎に還す。」「日本書紀」

難波長柄豊崎の宮は651年なので前期難波宮(大阪市東区法円坂)のことである。

孝徳天皇の埋葬場所は大阪磯長陵である。

その後 推古天皇の墓は「大野の岡」から「磯長の大稜」に用明天皇の墓は「科長の中稜」に移された。

「此の此の天皇丁未年四月十五日崩、御陵は石寸の掖上に在り、後に科長の中稜に還すなり。」    「古事記」

11,推古天皇 16,用明天皇 15、多米王の母 8,孝徳天皇 豊王権は全て方墳8,は聖徳太子の墓と伝わっているが上宮王家の墓はここにあるはずがない。

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上宮王権

「法興」年号は『法隆寺釈迦三尊像光背銘』に刻まれている。

法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼(推古二九年六二一)前太后崩明年(推古三〇年六二二)正月廿二日上宮法皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並著於床時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中(推古三一年六二三)如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳具竟乗斯微福信道知識現在安穏出生入死随奉三主紹隆三寶遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造

(訳) 翌年(622年)の正月二十二日に前皇太后が亡くなり、その年の正月二十二日(622年正月三十日)、王は枕元で病んで脳が乾き、皇后はまだ病気で寝込んでいた。

法隆寺

「623年3月、願いの如く釈迦尊像並びに侠待及び壮巌の具を造り卒る。」

上宮法王を祀る寺で聖徳太子の寺ではない。

また、『釋日本紀』に引用の『伊予国風土記逸文』中の「伊予温湯碑」には、法興六年(五九六)に「法王大王」が伊予を訪れたとある。

法興年号

法興元三十一年歳次辛巳(621年)とあるので法興元年は591年である。

在位は591年~622年

  1. 初代  上宮法王 法興 591年~622年
  2. 二代目 殖栗皇子 仁王 623年~628年
  3. 三代目 舒明天皇 聖徳 629年~641年
  4. 四代目 皇極天皇 ?  642年~649年

聖徳太子

聖徳太子(厩戸皇子)は上宮法王の長男だが621年2月5日葬去している。

皇極天皇

皇極天皇(宝皇女)は上宮法王の孫である。

上宮王権の本拠地

岡本宮 肥前の飛鳥

(舒明)二年(630年)十月、天皇、飛鳥岡の傍に還る。これを岡本宮と謂う。「日本書紀」

■「肥前の飛鳥」三養基郡みやき町西尾・東尾である。

舒明天皇

上宮王家の入り婿(百済人)

肥前神崎郡宮処に百済大宮 百済大寺を建立 葬儀も百済方式である。

(舒明)十三年(641年)十月、天皇、百済宮に崩ず。宮の北に殯す。こてを百済の大殯す。

舒明天皇は「彦人大兄皇子の子なり」とあるが彦人大兄皇子は阿毎王権の十五世である。ここでいう敏達天皇は別の百済王家の王族と阿毎王権の敏達を入れ替えたと考えられる。

舒明の死後、皇極天皇即位 645年孝徳天皇に皇位を譲る。

蘇我氏の横暴

  • 天子のみが行える「八佾舞」を行った。
  • 聖徳太子の子 山背大兄皇子の殺害
  • 家を宮門といい子供を王子呼ばせ天子のように振る舞った
  • 聖徳太子の子 山背大兄皇子を斑鳩で殺害

これにより645年上宮王権 中大兄皇子により蘇我入鹿 蝦夷を殺害

以後 蘇我本家は上宮王家の蘇我山田石川麻呂に移行する。

皇極天皇

田村皇子は厩戸皇子の病気を見舞う

初め飛鳥岡本宮御宇天皇の未だ極位に登らざるとき、号して田村皇子とゆう。(中略)天皇臨崩の日に田村皇子を召して遺詔す。「朕、病篤し。今、汝、極位に登れ。宝位を授け上宮皇子命と朕の羆疑寺を譲る。」

この時、上宮皇子は田村皇子を「汝、姪男」と呼んでいる。田村皇子の妻は宝皇女(皇極天皇)なので上宮皇子の父は 来米皇子が死んでいるので殖栗皇子であることが判る。

舒明天皇の跡 皇極天皇に皇位を譲る この年代は西暦642年~649年である

  • 舒明十三年(641年)十月、息長足日広額天皇(舒明天皇)崩ず。元年(642年)正月、皇后、天皇位に即く
  • 斉明即位前期、舒明十三年十月、息長足日広額天皇(舒明天皇)崩ず。明年(642年)正月、皇后、天皇位に即く、元を改める。四年(645年)六月位を天満豊日天皇(孝徳天皇)に譲る。「日本書紀」

皇極天皇の年号は不明である。

しかし大化の改新で改元し年号を大化としているが、孝徳天皇は豊王権である為王権が異なっている。

大化の改新(乙巳の変)

645年6月中大兄皇子は蘇我入鹿を討つ

  • 「皇極四年(645年)、中大兄、密かに(蘇我)倉山田(石川)に入鹿を斬る謀ぶ。(中略)即ち子麻呂都ともに不意に剣を以て入鹿の頭・肩を傷い割る。」
  • 蘇我入鹿を討った中大兄皇子は法興寺に入り城として蘇我氏の反撃に備える。

「中大兄、即ち法興寺に、城と為し而して備える。凡ての諸皇子・諸王・諸侯丈夫・臣・連・伴造・国造、悉く皆隋い待る。」   「日本書紀」

古人大兄皇子の反乱(乙巳の変 佃説)

  • 645年古人大兄皇子 古人大兄皇子謀反
  • 645年11月中大兄皇子に討たれる。

蘇我氏が滅ぼされたことによる反乱であるが、中大兄皇子に討たれる。

これにより孝徳天皇が難波に逃亡し九州には上宮王権のみが残る。

法興寺

■この法興寺は上宮王家の創建した寺で蘇我入鹿の創建した寺では無い。

中大兄皇子が城として使った寺なので上宮王家の寺である。

「623年3月、願いの如く釈迦尊像並びに侠待及び壮巌の具を造り卒る。」

上宮法王を祀る寺で聖徳太子の寺ではない。

法隆寺

法隆寺は移築された

法隆寺は肥前の飛鳥に在ったが現在は斑鳩にある。(佃説)

「日本書紀」には「天智九年(670年)四月、夜半の後に法隆寺火災。一屋も餘る無し。」とあるが、調査の結果 全焼したのは斑鳩寺で法隆寺には「年輪年代法」により再建された跡が無いことが判った。

法隆寺の移築時期

  • 和銅元年(708年)戌申、依詔造大宰府観世音寺、又作法隆寺 「七大寺年票」
  • 法隆寺、七大寺内、和銅年中造立「伊呂波字類抄」

法隆寺は和銅年間(708年~714年)に移築が完了している。

法隆寺金堂

天蓋 阿弥陀如来像(鎌倉時代)台座は救世観音像のもの 天蓋 釈迦三尊像(627年) 天蓋(鎌倉時代)薬師如来像(七世紀末以降)

夢殿の救世観音像 上宮法王の等身の像の可能性が高い

この法隆寺は上宮王家の創建した寺で蘇我入鹿の創建した寺では無い。

天武王権

阿毎王権の年号は627年に終わる。物部御輿の孫物部雄君連は684年天武天皇から内紫冠位を賜っている。

この時点で阿毎王権は天武王権の支配下に入っている。

天武王権の樹立

天武天皇の年号は白鳳(661年~683年)である。しかしそれ以前635年~660年「僧要」「命長」「常色」「白雉」の年号が見られる。

これは天武天皇の祖父が阿毎王権を略奪したと考えられる。

王権の場所は宗像であると考えられる。

これにより天武王権 上宮王権 豊王権の3王権が並存したと考えられる。天武の父の名は不明なので仮に天武王権とする。

天武王権の素性

天武の父の系統は天火明命に従った天ツ物部25部族の一人であると考えられる。

上宮王権の衰退

豊王権が大化の改新により滅亡し九州は上宮王権と天武王権のみになる。

天武王権は上宮王権の蘇我山田石川麻呂を打ち力を削いだ。

是日、大伴狛連と蘇我日向を以て将軍と為し、衆を領いて大臣を追わしむ。(中略)

是夕、木臣麻呂・蘇我日向・穂積臣噛は軍を以て寺を囲む。物部二田造塩を喚で大臣の頭を斬らしむ。  「日本書紀」

物部二田は鞍手にあり、物部二田塩は天武王権の武将である。蘇我山田石川麻呂を討ったのは天武の父と考えられる

蘇我山田石川麻呂が討たれたことにより上宮王権は天武王権の支配下に入り、畿内大和へ移動。

中大兄皇子の長女 太田皇女を人質に差し出し、更に持統を人質に送る。

斉明天皇崩御

  • 天智四年(661年)二月、天皇の喪を以て飛鳥の河原に殯す。「日本書紀」
  • 天智六年(667年)二月、天豊財重日足姫(斉明天皇)と間人皇女とを小市岡の上に合わせて葬す。「日本書紀」
  • 「日本書紀」では斉明天皇は661年7月に筑紫の朝倉宮で崩御 661年11月に飛鳥で殯を行ったと記す。
  • 斉明天皇が崩御(661年)百済(662年)救済が行われ5年後に葬られたというのは記載が不自然である。

天武王権の領域

■唐・新羅対策として水城・大野城・基肄城を築く

■天武天皇即位 白鳳二年(662年)宝満山の竈門神社 高良大社の創建

■つまり大宰府~有明海まで天武王権の領域である。 つまり百済救済も661年朝倉宮で崩御も天武天皇の父の話であると考えられる。

即位後額田王を皇后とする。

天武天皇の父の城(朝倉城 橘の広庭)

「日本書紀」は百済救済をしたのは斉明天皇で橘の広庭で崩御したと記すが百済を救済しようと動いたのは天武天皇の父である。

福岡県宮地嶽の西南にある天山がその城と考えられる。

宮地嶽城

福岡県宮地嶽に古代山城が発見された。

宮地嶽城

天武天皇の父の墓

661年頃に死亡した天武の父の墓と想定されるのが、宮地嶽古墳である。

宮地嶽古墳

被葬者は武市皇子の祖父宗像善徳と云われるが、安曇氏の墓に宗像が埋葬される可能席は極めて低くこの当時の権力者であった天武天皇の父であった可能性が高い。

白村江の戦い

  1. 660年百済は唐に滅ぼされる。
  2. 百済は倭に救援を求める。
  3. 唐は百済に五つの都監府を置いて統治する。

天智王権

斉明天皇の死後 天武天皇に大和の明け渡しを迫られた中大兄皇子は近江に移り668年天智王権を樹立する。

唐の侵攻

  1. 663年 9月   白村江の戦い敗北
  2. 664年 10月   筑紫の割譲が決まる 天武天皇難波へ移る
  3. 665年 9~11月 筑紫都監府設置
  4. 665年10月~12月守君大石・坂合部連石積等を唐の泰山へ派遣
  5. 666年正月    敗戦国として封禅の儀に参列
  6. 667年11月    境部連石積等を筑紫都監府へ送り届ける
  7. 668年唐は高句麗を討伐
  8. 新羅と組み半島を占領後、九州に上陸
  9. 水城・大野城・基肄城を見て日本征伐を断念
  10. 670年より唐・新羅戦争始まる

■文武王十一年(671年)七月二六日、大唐緦管の薛仁貴は琳潤法師(新羅の僧)を使者として王に次のような書簡を送ってきた。(中略)大王の答書は次の通りである。(中略)

また消息によると、国家(唐)が船鑑を修理しながら、倭国の征伐をするという口実を使いながら、実は新羅を討とうとしていたので、百姓たちはそのことを知って驚き不安を感じた。

■671年11月 沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝婆・布師首磐の四人が唐より来たりて曰く「国郭務悰六百人、送る使い沙宅孫等一千四百人、総合して二千人、船四十七隻に乗りてともに比知嶋に泊まり、相謂いて曰く~以下略「日本書紀」対馬国司から大宰府に連絡

日本の防衛線(水城・大野城・基肄城等)を視察した唐は半島での新羅の反乱で日本と戦うことを断念したと考えられる。

壬申の乱

斉明六年(660年6月)十月、百済の佐平鬼室福信は佐平貴智等を遣わし、来たり唐の俘一百餘人を献じる。今、美濃国の不破・片縣二郡の唐人等なり、又師を乞い救いを請う。「日本書紀」

(訳)天武の父が美濃国の不破・片縣二郡に百済が献上した唐の捕虜を住まわせた。

  1. 671年 天智天皇崩御
  2. 672年6月 天武天皇挙兵 美濃国挙兵 不破関を閉鎖
  3. 672年8月天智王権敗北
  4. 672年天武天皇飛鳥浄御原宮で即位

額田姫王

額田姫王は阿毎王権の鏡王の皇女で福岡県鞍手の生まれである。

天智天皇は上宮王家で肥前飛鳥から近江に移動した為、額田姫王と出会ったことは無いと考えられる。

天智天皇と額田姫王の話は持統天皇と藤原不比等による創作と考えられる。

額田姫王墓

額田姫王の墓は鬼の雪隠古墳であったが後年高市皇子により天武天皇陵に移され天武・持統陵と伝わる陵に共に葬られたと考えられる。

高市(持統)天皇の死後 天智天皇の娘 持統天皇により文武天皇に譲位されたと考えられる。

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