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高良玉垂宮神秘書 武内宿禰

武内宿禰

寛文一 〇年(一六七〇)には、祭神の高良玉垂命は武内宿禰であると定めた有馬藩の 藩論が明治に至るまで主流となったが神社側では、明治には武内宿禰説から、六国史時代の高良玉垂命へと還ることになった。

高良玉垂命(住吉三神)

表筒男

日神垂迹 安曇磯良 物部氏 通称は玄孫大臣 本名は鏡山 妻は豊姫(佐賀一宮)出兵時の鎧は 緋落とし 馬は葦毛 紋は木瓜 隠居して三頭院 内持(宮中の行事)を預かり天武天皇の時 子孫は役職を降りたと記載がある。

中筒男

住吉三神の二男中筒男は祇園祭の船鉾では鹿島大明神と記されている。高良玉垂宮神秘書に置いて中筒男は神武天皇と記されているが、この神武天皇は崇神天皇のことであり 「記紀」においては中臣鳥賊津と記されている。            

底筒男

三男底筒男は前の天皇(開化天皇)である 物部氏 異母兄弟には阿部の祖と云われる大彦がおり 名は阿部保蓮 干珠満珠を使った時の名を藤大臣という 妻は神功皇后 神紋は五七の桐(天皇家裏紋) 鎧 白糸 神馬はかけふちと記載がある。

高良玉垂命(住吉三神)事績

三韓征伐

皇代十五代神功皇后の時代に異類(新羅)が倭国を襲い、住吉三神の協力のもと三韓征伐を行ったことが記されている。

三韓征伐後

三男月神底筒男 神功皇后夫婦となり 嫡男日神垂迹表筒男は皇后の妹豊姫と夫婦となりその御子は、大祝日徃子という底筒男 表筒男二人は皇后と共に皇宮におり 三男月神垂迹底筒男は皇宮に住んでいる間位を譲り 太政大臣物部保蓮となった。」         「高良玉垂宮神秘書」第一条

皇代十七代仁徳天皇の時、皇后は崩御された。高良明神 豊姫 玄孫大臣 その子大祝日徃 武内大臣 皇宮を出られた。                      「高良玉垂宮神秘書」第一条

武内大臣は因幡国立草の郡の辺に靴を脱ぎ棄て衣を木の枝に掛け山の奥に入って行った。残り四人は皇宮よりはるばる行き 豊姫 玄孫大臣は肥前国に留まり 姫は河上大明神となられた。      「高良玉垂宮神秘書」第一条

吉山旧記

仁徳天皇の五十一年、肥前の国の桜桃(ゆすら)沈輪がくわだてをし て、異国へ内通して悪徒を集め、諸所で乱暴をするということが百姓 等からしきりに訴えられた。そこで、同帝の五十五年十二月に勅命に 従って藤大臣(武内宿禰)が難波の高津の宮を出られ、同月二十四日 に筑後塚崎の葦連(あしのむらじ)(塚崎の薬師寺姓の祖という)の館 に御着きになった。(中略)大臣(おおみ)は秘計をめぐらして同帝の 五十六年正月七日、類賊をのこさず退治された。

高良大社の御神宝

豊後の刀鍛冶の紀新大夫行平が船釘を材料にして造 った一振りの刀があるとされるが、刀鍛冶と小姓の間で「我が神[高良]玉垂命 は、もとをたどれば紀姓の出である」というやりとりが交わされている。高良大社における鞜や紀姓の出自の逸話は、高良玉垂命が武内宿禰であったことを示す傍証になる。

九躰皇子と武内宿禰の子

応神九年四月に「武内 宿禰を筑紫に遣(つかは)して、百姓(おおみたから)を監察(み)しむ」と あることから、武内宿禰が筑紫に下向して「筑紫の政事に関与」したことが『日 本書紀』でも確認できる。天保八年(1838 年)前後にほぼ成立したと見られる 青柳種信『筑前國續風土記拾遺』の早良郡の記述でも、「其のかみ此[武内]大臣 久しく筑紫に留りて國政を執給ひし故に其後裔當國に多く遺れるなるべし」と あり、武内宿禰が筑紫に長く留まってその子孫の姓が早良郡の地名として名残 を留めていることが示されている。    

武内宿禰御子の領地を示す文書

  • くせとは久世、即ち巨勢氏の所領の古名で 筑後国がこれにあたる。
  • せふりの語源は「へぐり」にあったと語られますが、日操即ち天文暦法の家系を表す古言であります。
  • 昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。(略)敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、万邦世界に普遍な暦法も必要になってくるところから、次第に両方併用の時代に移り変ってきた。
  • かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。皇極帝4(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。
  • 「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。
  • 和名鈔には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。『儺の国の星拾遺』p245
  • 九州に記される肥前国の葛城部だが葛城氏の氏神である一言主を祀るのは奈良と佐賀の旧脊振村であり鹿路葛城地名の通り、ここより東の山が葛城岳であったと記される。儺の国の星に脊振を挟んて北は平群氏が北方貿易を主幹し、南は葛城氏によって南方貿易を主幹したと記される。
  • 昔は舟人を「あきしき」或いは「あかし」といった。蘆木(あしき)はまさに太宰府に直属して千歳川の水行を司った氏族の名であった。
九躰皇子領地

高良御子神社の宮司様の説明では九躰皇子の名は武内宿禰の子に置き換えることができる。それを古文書と照合すると  

1 斯礼賀志命   長男・波多八代宿禰      2 松峡神社朝日豊盛命  次男・許勢小柄宿禰      3 暮日豊盛命   三男・蘇賀石河宿禰      4 渕志命     四男・平群都久宿禰      5 谿上命     六男・葛城長江曽都毘古      6 那男美命    長女・久米能摩伊刀比売    7 坂本命     次女・怒能伊呂比売      8 安志奇命    五男・木角宿禰        9 安楽応宝秘命  七男・若子宿禰となる。

東・西両坂本神社由緒書

東・西両坂本神社の由緒書きに石川宿禰社の名が見られる。

没年

武内宿禰の死没年に関しては、「高良玉垂宮神秘書」第一条 仁徳五五年に因幡国の宇 部山で沓を残して行方不明になった。 『水鏡』によれば同年に死去 したという伝承、『帝王編年記』や『公卿補任』によれば仁徳七八年に死去した という伝承などがある。

武内宿禰が行方不明になったり死去したりした という伝承がある仁徳五五年は、藤大臣が賊徒退治の勅命を受けて筑紫に下向 したという大善寺玉垂宮の伝承の年と一致し、同様に武内宿禰が死去したとい う伝承がある仁徳七八年は、藤大臣が大善寺の地で没した大善寺玉垂宮の伝承 の年とも一致する。

分析

「記紀における武内宿禰の事績は、ほぼ高良玉垂命の事績であり、皇子である九躰皇子の領地は、武内宿禰の子の領地と同じと考えられる。

つまり武内宿禰とは高良玉垂命の別名であると考えられる。

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