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阿蘇神社

熊本県

はじめに

数年前の大地震で阿蘇神社も被害を受け重要文化財の桜門 拝殿等は倒壊してしまいました。心より復興をお祈りしております。

震災被害からの復旧へむけて – 阿蘇神社

これは過去に取材した在りし日の阿蘇神社の記録になります。

桜門

桜門

桜門
三間一戸 二重門 正面唐破風付 銅板葺
現在の阿蘇神社の社殿は、天保六(一八三五)年から十六年かけて細川藩が巨費を投じて三つの神殿と桜門や脇紋を再建したものです。
 この桜民は天保十四(一八四三)年から嘉永三(一八五〇)年にかけて建立されました。樟材を用い、規模は豪壮にして繊細な彫刻が施され「日本三大桜門」の一つに数えられています。
屋根は建立当初に柿葺であったものが、大正六年に檜皮葺。昭和五十年には銅板葺となっています。
仏教的な要素を取り入れた二重門(二層桜山門式)という建築様式は、他の神社に例をみない貴重なものであります。 現在は建築物として国重要文化財の指定を受けています。
                 案内版より

この額は門の竣工記念に贈られたとあります

境内

拝殿の横にはあの結婚式の謡曲で歌われる高砂の松があります。
お詣りの方法男性は「左より二回」女性は「右より二回」

阿蘇 高砂の松(えんむすびの松)由来
今を去る一〇六〇年前、阿蘇友成(当社第二十六代宮司)は、天皇より位階上昇(位があがること)の御沙汰(しらせ)をうけて、宮中参内の為京に上りました。

その道すがら播州の尾上で縁起よろしき松に詣でました。

このことは世阿弥元清の謡曲(高砂)の冒頭(はじめ)に ―――吾こそは九州肥後国阿蘇の宮の神主友成とは わがことなり―とでており又、尾上神社の社記には「人皇第六十代醍醐天皇の御字内子春肥後国の神主友成此の松に詣でけるにより瑞松のいわれ名高き事しめし給う云々」と録されてあります。

願かけ石の由来
往時(二千年前)当神社の祭神阿蘇大明神がもろもろの願いをこめて祖神の霊にに額づかれたという
これは当時の「霊場の岩石」の一部といわれ古来(昔)より神石として伝承保存されてきた。
南北朝の時代より祈願成就の神石として独自の信仰を得てきたが室町(六百年前)の頃より、 神霊を更に具現(ぐげん)してその恩恵にあやからんものと人々この神石に手をふれて願いごとを口々に唱えたという。
すなわち「願かけ石」の起こった所以(ゆえん)である。
※なお祈念にあたってっは、先ず心に願いごとを念じ、 この神石を撫でること三度更に願いごとを唱えるべしとる。               案内版より

由緒

阿蘇神社由緒略記
一、御祭神 合わせて十二座のうち延喜式三座
  一の宮 健磐龍命
  二の宮 阿蘇津媛命
  三の宮 国造覇速甕玉命
二、御由緒
  神社の創立、社伝に孝霊天皇御子 速甕玉命阿蘇宮を創建給う(二八〇年)景行一八年
  惟人命 初代大宮司として祭祀を司る 古来連綿として九一代現宮司に至る。
三、御神徳
  国土書開拓の功業を第一とし殖産 農耕 商の守護神、又肥前国の一宮 総鎮守の
  大神として広く崇敬者の生業 家庭の安全を守護さる。
  以下略                          案内版より

阿蘇神社由緒略記
御主神健磐龍命は一代神武天皇の勅命に依って九州鎮護の大任に当られた。後に命は、紀元七十六年春二月阿蘇に下られ草部吉見神の娘阿蘇都比咩命を娶り、矢を放ち居を定められ、四方統治の大計を樹て阿蘇の国土開発の大業を始められた。当時大湖水であった阿蘇火口湖を立野火口瀬より疎通し阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた(七月二十八日の御田祭神事の起り)。
また歳ノ神を祭り(三月の田作神事の起り)、更に霜神を祭り(霜宮火たき神事の起り)、風神を鎮め給う(風宮社の風祭の起り)等国利民福の為に尽くされた。

業成っては阿蘇山麓に大巻狩を行い鳥獣の害を除き(九月二十五日田実神事に執行の流鏑馬の起り)※これは下野の狩りとも云い中昔源頼朝が富士の牧狩を行なうに先ち使者を遣わし、この狩りの古実を学ばせたと云う。この巻狩りは天正以後廃絶した。祀典の範を定め庶民のために其の憂苦を除き給いて吾が大阿蘇開発の先駆者として不滅の功績を遺された。是に土地開け住民この地に安住して今に至るまでその恩沢を享け皆夫々生業を営めるは命の偉大なる御事蹟に外ならず、洵に命の大業は吾が日本建国史に不滅の光彩を放つものと云うべきであり現今国土開拓の神、農耕道の祖神として汎く世人の崇敬をうけ十一世紀以降肥後一の宮と仰がれ肥後の国熊本の総鎮守神として尊崇をうけております。国土の開拓とはただ産業の振興のみならず吾々人間生活に関わりある交通・文化・学芸・結婚・医薬・厄除等の生活守護の神として限りない御神徳をいただいています。
第七代孝霊天皇の九年六月御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始めで平成三年より二、二七三年前であり、第十二代景行天皇の十八年惟人命に勅して特に崇敬を尽くされ永く祭祀を廃せざる様命ぜられた。これが阿蘇大宮司職の始であって現在に至まで連綿九十一代世々祀職を継承されており皇室に次ぐ日本最古の家柄である。

拝殿

一の宮 健磐龍命
二の宮 阿蘇津媛命
三の宮 国造覇速甕玉命

この並びをみてもおかしくて宇佐は左から一・二・三と左からですが、こちらは一・三・二の並びになります。           主神が真ん中ではないのです。

境内社

南門守社
北門守社

門前町

参道

健磐龍命と草壁吉見神その娘阿蘇都媛の話
草壁吉見神と健磐龍の父、神八井耳命は兄弟で吉見神は兄にあたります。
阿蘇郡無いにはその頃、治保郷・波良衣尻・阿曽等の郷があり、一の宮町は阿蘇郷に属していたと思われます。
まず吉見神は草部の村にあらわれる大蛇を、退治することにしました。
大蛇は吉野池に住んでいて、夜になると作物を荒らしたり人を傷付けたりしたのです。時には家をこわしてしまうこともあって、人々は安心して休むこともできません。勇気ある吉見神は、格闘の末その大蛇を退治しました。
傷を負った大蛇が回った跡を血引原、大蛇のなきがらを焼いてその灰が残ったといわれるところが灰原だといわれています。
一方、健磐龍命は、九州中部を治める為、九州の真ん中である阿蘇地方に向かわれました。しばらく御岳山のふもとに居を定めました。それが御岳村の起こりで、成君稲生原逆椿・塔の原・村雨坂日暮坂は命が村々をまわられた時のゆかりの地としてつけられた名前だといいます。
馬見原には幣立宮を建てられ天つ神をまつられたといいます。
御岳から健磐龍命は、伯父吉見神の住む草部にやってこられました。
そこで吉見神の娘の阿蘇都媛に出会われたのです。健磐龍命は媛と仲良くなり、妻として迎えました。
阿蘇外輪の北東部にあたる産山には健磐龍命の御子誕生ゆかりの地名がいまも残っています。御湯舟柄杓田平等の地名も、御嫡孫誕生ゆかりの地名だと伝えられており、産湯を使った時の湯船、いらなくなった柄杓を投げたことから柄杓田、産湯をわかした平釜がなまって、平川になったといいます。

例祭

御田植神幸式

御田植神幸式は「おんだ祭り」とも呼ばれる。この祭りは「ウナリ」という頭に唐櫃を乗せた女性の姿が印象的といわれる。かつては泥打ち(のろうち)が行われていたが、現在は大筋では変化はない。
前日には「遷座祭」として、4つの神輿に神々が移される。一の神輿には一宮、二の神輿には二宮、三の神輿には男性神(三、五、七、九、十一、十二宮)、四の神輿には女性神(四、六、八、十宮)と阿蘇十二神がすべて神輿に移される。次いで「例祭」として、28日に御田植神幸式が行われる。昼前に出発し、一の仮屋(御旅所)に昼過ぎに到着する。仮屋には神饌が供えられる。祝詞奏上、直会(なおらい)が行われ、酒を飲み食べる。駕与丁(かよちょう)が御田歌を歌ったのち、神輿を担いで回る。その時神職や氏子たちが神輿の屋根をめがけて苗を投げる。屋根に苗が多く乗ると豊作という。二の仮屋に進み、同じ神事を行なったのち本社に戻る。式が終わると歌い納めが行われる。そして神職が成就祭を行う。翌29日には再び「遷座祭」として阿蘇十二神が神殿に戻される 。


まつりーと
阿蘇神社火振り神事 祭紹介 | まつりーと

火振り神事
樫でくるまれたご神体が到着すると、茅の松明に火をつけ振り回します。炎の輪がいくつも神殿に浮かび上がります。大人に混じって子供たちもこの火振り神事に喜々として加わります。また、一般客も参加することが出来るようです。

分析

 確かに健磐龍は日子八井耳に代わり阿蘇氏の惣領を継ぎ阿蘇を開拓しましたが、後に乱を起こし鎮圧されます。彼の「記紀」における名前は手研耳命(たぎしみみ の みこと)
手研耳命
「記紀」では手研耳命は異母弟の神八井耳 神渟名川耳尊(のちの第2代綏靖天皇)を害そうとした為誅殺されたとある。
『御鎮座本縁』
第二代の懿徳天皇の后天豊津姫を略奪したのが阿蘇「多氏」庶流の手研耳命(亦の名建盤龍命)である。天豊津姫は略奪された後の変名が阿蘇津姫で、父は阿蘇「多氏」の統領草部吉見、母は高木大神の娘拷幡千々姫たくはたちぢひめで、高貴な女神にふさわしい系譜を有している。
阿蘇津姫を担いで手研耳命は各地で暴れまわり、懿徳天皇は重なる大失態を恥じて退位したか、あるいは失意のうちに亡くなったのかは不明だが、後継者の孝霊天皇の御代にあっても事態は改善されなかった。
茲で事態収拾の労をとったのが、春日大神(=草部吉見神)で、阿蘇津姫を取り戻し、豊玉彦と娶せ、それぞれ寒川彦、寒川姫に変名された。別名 杉山姫

スポット088(5/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 

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