健磐龍(手研耳)の乱の跡、阿蘇の惣領となったのは阿蘇神社の近く国造神社の祭神 速瓶玉命でした。
国造神社
参道
由緒
国造神社
祭神
速瓶玉命(はやみかたまのみこと) – 阿蘇神社主祭神健磐龍命の子。阿蘇国造大神。阿蘇神社では十一宮に奉斎。
雨宮媛命(あまみやひめのみこと) – 速瓶玉命の妃。蒲智比咩命(かまちひめのみこと)、海神の女神。郡浦神社主祭神。
高橋神(たかはしのかみ) – 速瓶玉命の第二子。
火宮神(ひみみやのかみ) – 速瓶玉命の第三子。
由緒
肥後一ノ宮阿蘇神社の御主神健磐龍命の第一の御子で、延喜式内社(官社)に列せられ、阿蘇神社と同格に取りあつかわれて来た神社で、阿蘇国土開発と共に庶民に農耕の道を教え、畜産に植林にと万幸を与え、衆庶を愛撫し、仁徳を施された御聖徳と御功業により、第十代崇神天皇の朝に、阿蘇初代国造と定められ、同十八年阿蘇国造の神としてお祀りされた歴史ある古い神社で、現在の御社殿は、寛文十二年肥後の藩主細川五代綱利公の御造営なされたものであります。 以下略 案内版より
拝殿
神紋は違い鷹羽 阿蘇神社の北に位置することから北宮と呼ばれています。
境内
この桧には白蛇の神霊が宿り、時に姿を見せて、その姿を見た者は運が開けるとの伝承があるそうです。
健磐龍命が阿蘇火口湖の「立野火口瀬」を蹴破り開拓されたときに大鯰が出現し阿蘇谷の半分にわたり横たわっていたので命が鯰に向かい「阿蘇の地に多くの者を住まわせようと骨を折っておるが、お前がそこにおると仕事が出来ぬ」と言い放たれると、鯰は深く頭を垂れ、命に別れを告げるかのようにその場を去ったと云います。命はその湖の精霊であった鯰の霊を奉ると同時に、鯰を捕獲して食することを固く禁じたと云います。
阿蘇の鯰と地震について
日本は太古から噴火が多い。降り落ちた灰は地熱と日射で分解して砂鉄となる。
『儺の国の星・拾遺』より
これを駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。
波打ち際に沿って、干潟の浜に行く条もの縞模様が、或いは濃く、或いは淡く、えんえんと連なる。
漁師はこれを見て、海が荒れるか、和らぐかを見極めた。
特に地震の直前は、海底からの無数の気泡が間断なく噴き上がるので、思い砂鉄の粒はいつもより多量に海水の中に浮き上がり、これが長い波に大きく寄せられて、浜に上がる。
浜は一面に炭の屑を厚く固めたかの如く黒く敷かれる。
かつて、漢人が日本の西海に如墨という国名を記録した理由はこの青黒い海の色を見ての事ではないか。
砂鉄を肥後で「なぎ」、伯耆で「のぎ」、越後で「ねぎ」、美濃で「なへぎ」という。地震即ち「なゐ」(地震の古語)で、ゆり動いて煽り出るからと説かれている。
つまり地震前の波打ち際の砂鉄を鯰と呼び鉄を崇めていたことが伺えます。
国造神社の祭神である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)手植えの木と伝えられ、推定の樹齢は1000年以上とも2000年ともされていた。1924年(大正13年)に国の天然記念物に指定されたが、1991年(平成3年)の台風被害で主幹が折損し、その後枯死が確認されたため平成12年(2000年)に天然記念物の指定を解除されている。
上御倉古墳・下御倉古墳
予想ですが、多分一つは健磐龍(手研耳)のものかもしれません。
甲佐神社
阿蘇神社(阿蘇市)、郡浦神社(こうのうらじんじゃ、宇城市)、健軍神社(けんぐんじんじゃ、熊本市東区)、と共に阿蘇四社と云われる神社が
由緒
甲佐神社
甲佐神社 – 神社探訪・狛犬見聞録
熊本県上益城郡甲佐町上揚882
祭神
主祭神
健磐龍命(タケイワタツノミコト)の御子 主祭神 井耳玉命(ヤイミミタマノミコト、甲佐明神)
蒲池比咩命(カマチヒメノミコト)
神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)
媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)
由緒
阿蘇神社の主神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が朝鮮半島に渡り、帰ってくるときに対馬の女性を連れ帰りました。この2人のあいだに生まれた子が八井耳玉命(やいみみたまのみこと)=甲佐明神で、7歳のときに甲佐へ封じられたとされています。
阿蘇神社(阿蘇市)、郡浦神社(こうのうらじんじゃ、宇城市)、健軍神社(けんぐんじんじゃ、熊本市東区)、と共に阿蘇四社
もともと鏑崎宮(かぶらざきぐう)と称したが、神功皇后凱旋ののち、甲冑を納められたので甲佐宮と改めたと言われる
甲佐三宮大明神とも称するのは、一殿に甲佐、二殿に阿蘇、三殿に郡浦の三神
甲佐神社の境内の樹齢500年を軽く上回るイチョウの大木
拝殿
鎌倉時代に元軍(モンゴル)が日本を攻めてきました(元寇、蒙古襲来)。そのとき、勇敢に立ち向かった肥後の御家人が竹崎季長(たけざき すえなが)です。
甲佐神社 – 神社探訪・狛犬見聞録
下益城郡豊福荘竹崎の生まれの季長は、見たこともない元軍の「てつはう(火薬で爆発する武器)」や毒矢を恐れず、命をかけて戦い、負傷するほど勇戦しましたが、彼に対して、幕府は恩賞を与えませんでした。不満に思った季長は鎌倉まで行って幕府に直訴し、その結果、戦功が認められて、甲佐神社の社領だった海東郡(宇城市小川町東部)の地頭職を獲得することができました。
後日、彼が戦っている様子を「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」として描かせ、甲佐神社に奉納しました。「蒙古襲来絵詞」は、当時の武士たちの姿や戦い方を知る上でとても貴重な資料であり、明治時代に皇室に献上されるまで甲佐神社に所蔵されていました。
分析
大山咋
まず国造神社の祭神 速瓶玉命(はやみかたまのみこと)ですが甲佐神社の主祭神 井耳玉命(やいたまのみこと)と同じ健磐龍命の子と記されていますが、それは娘の雨宮姫を妃に迎えた為であり 正確には草壁吉見(天忍穂耳)の実の息子であります。
更に甲佐神社には彼の母の記載ことがされており朝鮮半島から帰り対馬の女性との間の子と記載されています。
これは須佐之男命の娘 須瀬理姫(市杵島姫命)のことで天忍穂耳と市杵島姫命との間の息子は大山咋となります。
蒲池比咩
阿蘇の蒲池比咩とは、阿蘇族の草部吉見氏族が奉祭する阿蘇の母神とよばれる女神。阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、国造神社に祀られる。この草部吉見氏族は「狗呉(くご)」の族ともされ、のちに日下部氏を称する
高橋神 火の神
高橋神 火の神も速瓶玉命の二子 三子と記されていますが雨宮姫との間の息子となります。
阿蘇二宮とはされていますが、古代の神格から言えば阿蘇一宮の健磐龍などよりは遥かに上位の神なのです。
速瓶玉命はその後市杵島姫命と共に大己貴の養子になり大物主を継いだことにより阿蘇の神とは区別されたようです。
松尾神社
同じ田心姫の連れ子であった事代主に酒造を教わり酒の神となった現在菊池にある松尾神社は京都の松尾神社からの勧請と伝わりますが、実際はこちらが元宮かもしれません。健磐龍と阿蘇津姫が祀られているのはそうゆう訳なようです。
更に日吉 山王全て彼のことを表す神名になります。
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