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豊日別

天細女命

「次に、筑紫の島を生む、子の島もまた、身一つにして面が四つあり、面ごとに名がある。」白日別命:筑紫国 、豊日別命:豊国 、豊久土比泥別命:肥国 、建日別命:熊曾国

『古事記』

古事記一説にある豊日別とは、どのような神なのかここに豊日別の正体を探る神社が存在します。

英彦山豊前坊高住神社

この神社は英彦山の摂社なのですが、天忍穂耳を祭る英彦山の中では他の摂社とは別格のようです。

参道

ニノ鳥居の石段の途中に座っているのは役行者でしょうか?

石段を登って行くと大きな杉の木が目に入ります。

天狗杉 樹齢850~900年
手水舎

由緒

豊前坊高住神社
御祭神
豊日別命    とよひわけ
天照大神    あまてらす
天火明命    あめのほあかり
火須勢理命   ほすせり
少名毘古那命 すくなびこ
 社伝によりますと、御祭神は豊前豊後の国の守り神として、もと鷹巣山に祀られ、人々の病苦を救い、農業や牛馬・家内安全の神として古くから崇められ、社殿は遠く継体天皇の御代(約1500年前)藤原恒雄によって創建されたと伝えられています。また、当神社は豊前坊天狗神としても有名で、欲深く奢りに狂った人には天狗を飛ばせて子供をさらったり、家に火をつけたりして慈悲の鉄槌を下し、心正しく信仰する人には家来の八天狗をはじめ統べての天狗を集めて願いを遂げさせ、其の身を守ると伝えられてきました。英彦山豊前坊天狗は九州の天狗群の棟梁格と云われています。
 境内の石鳥居は元禄十年(1698)、青銅の神牛は天保九年(1839)に寄贈され、ともに五穀豊穣、牛馬・家内安全を祈願して田川郡の大庄屋六人が住民を代表して奉納したものです。人畜の病める部分を振替えてもらうよう、その部分をなでる風習が言い伝えられています。 案内版より

祭神
豊日別命(豊日別国魂神) 豊前豊後の住民の守護神
天照大神 日の神
天火明命 稲穂(農耕)の神(天照国照彦火明之命)
火須勢理命 鎮火(火伏)の神
少名毘古那命 禁厭(祈祷)医薬の神
豊前坊高住神社由緒
英彦山豐前坊の名は天下の普く知る所であつて、農作牛馬惡疫火難の守護神として霊験あらたなる御神徳は誰も厚く尊信せざる者はない。乍併御祭神の事蹟や御鎮座の由來は未だ精しく知られて居らぬやうであるから御由緒の大畧を述べたいと思ひます。
豐前坊は高住神社と稱へ奉りて、英彦山の北麓豐前豐後の國境に鎭座し、豐日別命を齋き奉れる大宮であります。
社傳に繼體天皇二十三乙酉年秋(凡千三百九十余年前)「我此の磐根に居る事年久し我前を齋き奉れ永く豊國人の諸願を滿さむ」この神託を蒙りて、豐後國藤山恒雄(彦山第二世座主)神祀を創建して御鎭祭申上げたと傳へてゐます。
神世の昔天つ神は伊弉諾伊弉冊の二神に「此の漂へる國を造り固めよ」との詔を下されました。二神は詔のまにまに天地を共に窮りなく隆まさむ皇御國の礎を定めむと相謀りて、大八州國を生み山川草木を産み八百萬神を生みてそれぞれ職務を分担せしめ給ひ、二神は高天原即ち皇都に坐まして萬機の政を總攪し給ひ地方は國つ神をして民生の化育を分掌せしめられました。
此の時豐日別命は豐國(豐前豐後後元一國ニテ豐国ト云フ)開拓の重任に就かせられたのでありますが、當時の國狀は天つ神の「漂へる國」と宣ひし如く、熊襲土蜘蛛などの未開の民各地に穴居して、山野に狩獵し河海に魚貝を漁りて生食し、所謂原始の生活を營み、廣袤たる沃野は唯雑草の生茂るに委せてありました。
是に於て豐日別命は一族の神々と共に、山野を開墾し河川を浚渫して水陸の美田を開き牛馬を使役して五穀を耕作する事、木綿麻絹糸を織りて衣服を調へる事、家屋の建方など衣食住の大本を開き、叉醫藥を以て疾病を治し禁厭太占を以て災禍を除き吉凶を判ずる事をも敎へて生活に安ぜしめ、能く蒙昧の民を撫育して自から同化に勉め給ひ、遂に渾然融和して子孫相共に國中に繁榮し産業は益々興隆して萬物豊富となり豐國の美名に背かざる基を建て給ひし神德洪大なる政治産業血統の始祖の大神に坐ますのであります。
仰祖先を崇拝し神社を尊重するのは人倫の大本治國安民の要道であります。されば豐日別命の血を享け肉を分けた豐前豐後の國人が、高住神社の大氏神と仰ぎて昔も今も換る事なく尊崇し、叉豐日別命の大業を繼承せる歴代の國司領主が厚く崇敬せしも蓋し當然であります。殊に小倉藩主は高百石を奉り、毎年正五九月に代參を遣して奉幣あり。佐賀藩主は屡社殿を修造し奉りしを以て、御本殿其他の建物も整備してゐます。境内は萬仭の靑巖屏風の如く連りてその背景をなし、千古の老杉は森然として天を衝き、滾滾たる社前の淸流は自から塵心を洗ふ幽邃閑雅なる神境であります。
例祭は十月十七日、神幸祭は九月第二の丑の日、これを丑の祭と稱へ遠近よりの賽者も牛馬加幣の古式なども行はれる盛大な祭事であります。
高住神社前宮司 故松養具栄氏による豊前坊高住神社略記(時代不祥)

高住神社ホームページより

拝殿 本殿

狛犬
拝殿

神紋は阿蘇の天忍穂耳を祭る草壁吉見の神紋と似ています。

草壁吉見神社 神紋
本殿

千木は外削ぎ 本殿は岩入り込んでいます。

摂社

豊前坊龍神

歌碑

明治・昭和期の女流俳人・杉田久女(すぎたひさじょ)
『谺(こだま)して山ほととぎすほしいまヽ』の橡の実のつぶて颪や豊前坊

霧冷はしのびよるもの豊前防 小坂蛍泉

分析1

「高良玉垂神秘書」では天忍穂耳と彦火々出見は兄弟「記紀」では天火明命 火須勢理命(海幸)は孫と記してあります。つまりこの摂社が別格なのは英彦山の天忍穂耳と同じ一族であると考えられます。更に高住坊は九州の天狗の棟梁であるとあります。これらは全て豊日別のことを表す表現と解釈します。

では豊日別とは誰のことか伝える神社があるので、そちらをご紹介しましょう。

豊日別宮

小さいですが全国では六十八社の一つ 官幣大神宮です。

境内

罔象女命

物部の象徴 鶴が配置されています。

猿田彦大神

由緒

祭神
豊日別命(とよひわけのみこと)
罔象女命
高龗神
由緒
 欽明天皇即位の年(532)、神が老翁の姿と化して現われ、神官の大伴連神牟祢奈里に「我は猿田彦の大神なり天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である」と告げた。翌日、大神は豊日別宮に降臨し「猿田彦は天照大神の分神なりこれにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす」と告げたことから社殿を建てて祀ったのが本社の起源とされる。
 欽明天皇28年(567)には洪水飢饉などが各地を襲ったが、豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇されたという。
 養老4年(720)大隅、日向の隼人が反乱したため、朝廷は大軍を派遣するとともに宇佐八幡神に祈願してこれを討伐した。しかし官軍に殺された隼人の祟りでさまざまな病や災いがあったため、宇佐八幡神は隼人の霊を鎮めるため金光明経の教えに基づいて「毎年放生せよ」と託宣した。これにより魚や鳥などを解き放って生を全うさせる仏教儀礼である放生会が行われるようになった。放生会の際に、朝廷の勅使が一旦、豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮と呼ばれるようになった。
 官幣奉安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造しそれを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行われた。
 神幸の経路は8月9日草場豊日別宮を発し、国作御所屋敷、徳政若宮を経て11日祓川で禊ぎをし、築上郡湊八幡宮、上毛郡高瀬村、宇佐郡佐野里を経て、13日凶士塚に至り宇佐神宮の神幸を待つ。宇佐八幡の神輿が到着すると並んで和間の浜に向い、浮殿頓宮に宇佐八幡神に官幣と神鏡を奉る。14日後、法会と伝戒があり、15日朝、海に蜷や貝を放流する。
 宇佐神宮に対して度々行われる官幣の奉納に際しては、その後も豊日別宮が官幣奉安の宮居となった。    平成19年3月  豊日別宮顕彰会  

拝殿

拝殿

拝殿から得られる情報はありませんが、由緒書きに重要なことが記してあります。

分析2

初老の神は豊日別宮に降臨し「猿田彦は天照大神の分神なりこれにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす」と告げた。
宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造しそれを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行われた。
とあります。

つまり二つの神社から得られる情報は、猿田彦は天照大神の分霊で天忍穂耳の一族つまり天火明命 (天照国照彦火明之命)=饒速日命もしくは火須勢理命であり天照とはその配偶者 天細女(アメノウズメ)香原神社の辛国息長太姫のことではないかと予想されます。但し岩戸後ですが

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