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安部 裕治説「辰国残映」

豊玉姫

神頌契丹古伝とは

「契丹古伝」はラマ寺院にあった古文書を日露戦争の時、濱名寛祐氏が写し取り持ち帰ったものである。ここに「安冕辰沅氏(天氏)」「卑弥辰沅氏」の記載がある。

「契丹古伝」は濱名寛祐氏がラマ寺院から持ち帰った書であるが、その内容は契丹の歴史では無く契丹が滅ぼした渤海国の歴史がその大半を占めている。

渤海国

渤海国
  • (698年- 926年)は、現中国北東部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。靺鞨靺鞨族大祚栄により建国された。周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹)によって滅ぼされた。渤海国の成り立ちに於いては690年に即位した唐の則天武后武皇后の弾圧により営州都督府の管轄下にあった松漠都督府の支配地域に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて粟末靺鞨人は指導者乞乞仲象の指揮の下で高句麗の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。「震」という国名は『易経』にある「帝は震より出ず」から付けたものであり「」に通じ「方」(正確には東南東と南東の間)を意味することから渤海の支配層が中国的教養を持っていたことが窺える。この地は後に「旧国」と呼ばれる。
wikipediaより引用

辰国

蓋辰者古国上代悠遠也 伝日神祖之後 有 辰沅獏率氏。本興東表阿斯牟須氏為一。辰云謨率氏有子、伯之裔為日馬辰云氏 叔之裔為千霊辰云氏。千霊岐為千来、二千隔海而望千来。又分為高令云~略~撃漢。(訳)「契丹古伝」 蓋し辰は古い国であり、上代より悠遠なり。伝えて曰く、神祖の後 辰沅獏率氏本表の阿斬牟須氏と同一なり。辰沅獏率氏に子あり 伯の後裔を日馬辰沅氏といい甥の後裔を千霊辰沅氏という 千霊は岐(わか)れて千来となり二千里海を隔てて而して千来を見ることが出来る。又分かれて高令となるという。然るに今はそれを考えることができない。その最も顕著なる者が安冕辰沅氏である。本(もと)東表牟須氏の出であり殷と婚をなす。国を賁彌辰沅氏に譲る 賁彌氏が立って未だ日が立たないうちに漢が攻めてきて、まさにせまりその先朔巫達に入る これを撃退す。
准委氏は嶺東に藩(かきね)をつくり辰の守郭となる。藩耶は又亜府閭に兵を観せ、以て漢を掣(ひきとど)む「辰は古い国であり 上代より悠遠なり」とある。古代中国に「辰」が存在していた。

つまり辰国は、倭人(辰沅獏率氏)が建てた国であると記している。この辰国は、朝鮮半島では、辰韓と呼ばれた国の前身であると考えられる。

日本と渤海国との関係

渤海王大武芸(だいぶげい)が神亀4年(727)に日本に使者を派遣してきたことから、日本と渤海との交渉が始まる。渤海が「自身は高句麗の後身である」と名乗ったことから、かつて滅亡前後に辞を低くして日本に遣使してきた高句麗との関係を思い起こした。その結果、渤海を自分より下位の朝貢国とみなした。これが日本と渤海交渉の出発点である。

「契丹古伝」に記されている内容たとえば、跪礼や拍手は、『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国でおこなわれていた古い動作である。この渤海使により日本にえられたが、日本は問題としなかったと云われている。以後この内容に関して日露戦争の時、濱名寛祐氏が持ち帰るまで不明であったと考えられる。

鏡の本義

第一章 鏡の本義

濱名寛祐氏「神嶺契丹古伝」八幡書店訳によります。

日若稽諸博有之日神者耀無似能名焉維鑑能象故稱鑑曰日神體如珂旻譯文

(訳)神と鏡(鑑)の関係を考えてみると、言い伝えにはこうある。この言い伝えを受け継いできた族の崇拝する。日神(かか)の形代を見出して、その形代に御神体の名を冠することが出来ませんでした。ところがこの日神(かか)崇拝民族が銅鏡を入手すると、日の光を反射して光輝く鏡が耀躰(ようたい)である日神(かか)の躰を見事に象っていることに気づきました。彼らが初めて手にした銅鏡は外来品であり、これまで目にしたことの無いものでしたから、自族語で名称はありませんでした。そこで光輝く鏡を日神躰(かかみ)に見立て、鏡を日神体(かかみ御神体)と称するようになったというのです。

「古事記」にみえる「加賀美(鏡)」の語から知られるように我が国の上代には既に「かがみ」という言葉がありました。伊勢の皇大神宮(内宮)では八咫鏡が御神体として奉安されており、上代日本語の「かがみ」の語源が「日神体(かかみ)」であることに疑いの余ありません。

鏡と銅剣のセットを祭祀は、我が国では弥生中期初頭に伝わったと考えられ福岡県岡県吉武3号木棺では、すでに銅鏡を「かがみ」と呼称していたと考えられます。

中国北京市昌平県白浮村2号・3号墓

この「戞珂旻(かかみ)」の呼称は古く、それ以前は単鈕無文鏡(たんちゅうむもんきょう)と有柄式銅剣のセットを副葬する中国北京市昌平県白浮村2号・3号墓の埋葬年代とされる、西周早期まで遡れると考えられます。

「頌叙」の伝える「日本書紀」の天照大神の原像

第二章 日神東大海に禊して日孫を生む

恭惟日祖名阿乃沄翅報云戞靈辰云珥素佐煩奈清悠氣所凝日孫内生

(訳)謹んで思い起しますに、日神の名は阿乃(あめ)・沄翅報(うしふ)・云戞靈(うかるめ)東大海(しうみ)の清白(すさ)の穂波で身体を洗い清められ、清らかで静かな雰囲気の濃く漂う場所で、日孫を身ごもられた。

浜名は、大陸神話の「日祖」の名が天照大神の名に読め、大陸神話の「順瑳檀弥子(すさなみこ)」の名が我が国の「須佐之男命(すさのおのみこと)」に投影されていることから大陸神話と我が国の神話に繋がりがあることに疑いの余地はないと確信した。

「日尊(かも)」の降臨

第三章 日孫(かも)の天降

日孫名阿泯美辰沄繾翅報順瑳檀弥固日神乳之命高天使鶏戴而降臻是神祖蓋日孫讀如戞高天使鶏讀如胡馬可兮辰沄繢言東大國皇也

(訳)日孫の名は阿泯美(あめみ)・辰沄繾(しうく)・翅報(しふ)・順瑳檀弥固(すさなみこ)日祖は日孫に授乳(教育)し。高天使に命じて日孫を載せて地上に降らせた。日祖は神祖になった。

浜名は辰沄繾翅報は東大国皇とい意味であるとし、須佐之男と順瑳檀弥固の類似点については、「之男」を要約すると「檀」を延音にすると「之男」となるとしている。「順瑳檀(すさ)」の意味は、「清らかで清々しい場所で、日孫を身ごもられた」という意味であるとしている。また、須佐之男が大陸神話に割り込んで来たのなら、「ハナ」から生まれたというのも一緒に割り込んできたと考えられる。それは「東大海清白穂波(しうみすさほな)」の「穂波」のことである。

大陸神話の「順瑳檀弥」と我が国の神話「須佐之男」は音は同じであるが、意味は異なるとしています。

上代の近畿天皇家が鏡(日神体)を御神体として「日神(ひのかみ)」を祀っていた根源理由と「日神(ひのかみ)」が天照大神の御神体に為りかわったことについて

神と鏡(鑑)の関係を考えてみると、言い伝えにはこうある。この言い伝えを受け継いできた族の崇拝する。日神(かか)の形代を見出して、その形代に御神体の名を冠することが出来ませんでした。ところがこの日神(かか)崇拝民族が銅鏡を入手すると、日の光を反射して光輝く鏡が耀躰(ようたい)(日の光)である日神(かか)の躰を見事に象っていることに気づきました。

第二章では日神の名は阿乃(あめ)・沄翅報(うしふ)・云戞靈(うかるめ)東大海(しうみ)の清白(すさ)の穂波で身体を洗い清められ、清らかで静かな雰囲気の濃く漂う場所で、日孫を身ごもられたとあります。では阿泯美(あめみ)・辰沄繾(しうく)・翅報(しふ)・順瑳檀弥固(すさなみこ)の父はというと「日神御子(ひのみこ)」であったことが想像できます。

これが天照大神の御神体になり替わったのは、「古事記」「天降り」の段の解釈を誤ったことに端を発します。

「大日孁貴」を「天照大神」とする一書の存在や、「誓約」「岩戸隠れ」に認められる「日神」と天照大神の相互互換性を自然神「日神」を「祖神・天照大神」を同一神とする為の作為と考えられます。

「古事記」崇神記の豊鉏比売(とよすきひめ)の名の分注に「妹豊鉏比売命者、拜祭伊勢大神之宮也」垂仁天皇の妹の豊鉏比売は伊勢の大神の宮を拜き祭られた。」とあります。

問1:崇神記、垂仁記にみえる伊勢大神は「日神」か天照大神か?

答え:日神である。

理由:垂仁の伊勢大神の表記は「伊勢大神」であり「伊勢大御神」ではない。
また天磐戸にお籠りになった「日神」が磐戸を開けて出ようとしたとき、天児屋根が差し出した鏡が磐戸に触れて小傷がつき、その傷は今も鏡に残っている。すなわち伊勢の大神の御神体は、鏡であり「日神」であることがわかります。

元伊勢伝説 (御巡幸の足跡)

「古事記」の「垂仁記」の分注には、伊勢の大神の宮は崇神天皇の時代には既に存在していました。
しかし「続日本記」文武二年(698)条「十二月乙卯、多気の大神宮を渡会の郡に移す」の記事があり滝原の「伊勢大神」=「日神」が698年に移されたと説いています。

ここで天照大神と御神体が完成したことになります。つまり天照大神はこの時まで日神ではなかったことにまります。

問2:「伊勢大神」が「日神」であったとして、当初は地方神であったのか?

答え:皇室の祀る「日神」である。

理由:鏡を御神体とする「日神系神道」は「三種の神器の鏡と銅剣をセットとする「日神系神道」の勢力で「日神」である。

問3:伊勢神宮(内宮)の御神体とされる鏡は天照大神が瓊瓊杵尊命に賜った鏡か?

答え:別の鏡である。

答え:天照大御神が瓊瓊杵尊命に賜った鏡は、瓊瓊杵尊の御墓と思しき吉武高木3号遺跡の副葬鏡、阿毎(あめ)氏の倭(九州王権)の宮中に「日神」の御神体として奉安され、伝世された鏡であろうと考えられ伊勢の鏡は畿内王権の小傷のついた鏡であるとかんがえられます。

辰国の考古学的指標と軌跡

  • 燕山山脈の南 単鈕文鏡と有柄式銅剣のセット (西周早期)北京市昌平県 白浮村2・3号墓)
  • 燕山山脈の南 単鈕文鏡と有柄式銅剣または遼寧式銅剣のセット (西周末~春秋早期 前8世紀)内蒙古自治区寧城県 南山根M101号墓
  • (春秋前期) 内蒙古自治区建平県 水泉城子M7701 M7801号墓 大拉罕溝751号墓
  • 多鈕祖文鏡と遼寧式銅剣のセット (前8世紀末~前7世紀前半)遼寧省朝陽県 十二台営子1・2・3号墓
  • 多鈕祖文鏡と遼寧式銅剣のセット (春秋晩期~戦国早期:前6世紀~前5世紀)遼寧省本渓市 梁家村一号墓
  • 多鈕祖文鏡と遼寧式銅剣のセット (戦国前期:前5世紀~前4世紀) 瀋陽市鄭家窪子第3地点6512号墓
  • 多鈕祖文鏡と遼寧式銅剣のセット 北朝鮮 伝平安南道成川郡
  • 多鈕祖文鏡と細型銅剣のセット (前3世紀) 韓国 忠清南道扶余郡 蓮花里石槨墓  忠清南道礼山郡 東西里石槨墓他
  • 多鈕祖文鏡と細型銅剣のセット (前2世紀) 前羅南道和順郡 大谷里石槨墓  
  • 多鈕祖文鏡と細型銅剣のセット (弥生中期初頭) 福岡県福岡市 吉武高木3号木棺墓
鏡と銅剣

紀元前8世紀~紀元1世紀までの鏡と剣の副葬品を地図に落とすと倭人の軌跡が見えてくるようです。

佃収説の倭人の移動

余談ですが、佃収説「契丹古伝」文書による倭人の移動年代です。佃収先生によると更に紀元前1200年まで遡ることが出来るそうです。

分析

その後、安部裕治氏の講義の後の質疑において「契丹古伝」の成立について同書の成立には、この書の元となった「渤海国」の書があり、その大半が渤海国の歴史であったことが語られました。

渤海国の建国は698年で大祚栄が高句麗の残党と建てた震(しん)国で「帝は震より出ず」から付けたものであり「」に通じ「方」(正確には東南東と南東の間)を意味する。

大祚栄の出自自体は、本名が「祚栄」であり、本来姓氏がなく、後に尊称として渤海王族の姓氏「大」を名乗ったと云われている。

 その後の安部氏の質疑において渤海国は「磐井の乱」で失脚した筑紫の君磐井の一族(卑弥氏)が大陸に戻り渤海国の高句麗に入ったのではないかと考えられているようです。

粕屋の屯倉

粕屋の屯倉

 磐井の乱においてヤマト王権へ献上した粕屋の屯倉とは、稲の収穫以外に、港湾、採鉄、軍事などの基地も含まれており、大陸との貿易権全てをヤマト王権(天氏)に献上したと考えられる。

松野連系図

松野連(倭王)系図

有名な松野連系図ですが、熊鹿文の所は、称 卑弥呼 取石鹿文の所が川上梟帥(かわかみたける)と記されています。

その後の卑弥氏

 その後、卑弥氏の動きは求心力を失ったと考えられ、以下のような道を辿ったと考えられます。

  • 大陸に入り高句麗と共に渤海国を建国
  • 一般にウガヤフキアエズ王朝と云われる王は、川上梟帥(かわかみたける)により引き継がれた。
  • 大屋彦に始まる阿部(安部)一族は、長脛彦の一族として北に追いやられた。
  • 福岡県鞍手市の熱田神社に伝わる「金川文書」には、「磐井は孝元天皇の長子である 大彦命の血を引く筑紫国造とされており 鞍橋君は葛子の弟である。」と記されており筑紫君 葛子のあと鞍橋君として豪族として生きながらえたと記されています。

ほぼ日本武尊か、神武天皇により誅殺されたと神話では伝わっています。

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