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高祖神社

福岡県

実は この神社の存在のことを偶然知ったことから山幸が宮崎の神話では無いことを知り、九州の神社を調べはじめるようになりました。

考察
「三代実録」に記されている「元慶元年(877年)高磯姫に従五位を授ける。」とあり女神であることからこの神社の祭神は高磯姫であるというのは間違えで、本来は細石神社の女神二柱のことであろうと推察している。「高祖神社の主神彦火火出見の神輿が、その母親である木花開弥姫に神行したこと細石神社が怡土の中心にあることにより彦火火出見を祭神にしているそうです。

参道

一之鳥居
徳萬神社

中間点 徳萬神社
牛・馬の神とされ祭神は少彦名 保食神です。

二の鳥居

境内

由緒

祭神
彦火火出見尊
玉依姫
神功皇后

社説に曰く、当社の創建の起源は、はっきりしないが、怡土県主(いとのあがたぬし)の鎮土の社として上代から鎮座していて、怡土県主の崇敬が」厚かったことがはっきりしている。
怡土県主・五十迹手(いとて)の勤王ぶりはひとえに当社を尊崇しているからだと思われる。神功皇后が三韓征伐をするとき、香椎宮から」ここまで御幸があって、高祖の神に異国降伏の御恵みを祈願されて、その通りに神助が深くあったので、皇后は帰還ののち報恩のお祭りとして新たに御宮を造り、乾に向かって御社を建てられた。
時代が下がって、奈良朝の孝謙天皇の御代に吉備真備に命じて怡土城を築かせたが、その時、当社を怡土城の鎮護の神とされた。当社は場内の中央の岡の上にある三大実録に(略)高磯比咩神従五位下とある。

由来
「九州諸将軍機」には「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より期間ののち、当社の社伝を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。この機縁で神功皇后を相殿に祭ったと記されている。現在の社伝は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された。」旧社伝の場所は今の社伝から西方向800メートルにある。

神楽殿


春と秋には夜神楽が行われます。

狛犬

手水舎

拝殿

拝殿

昔の地図と羅針盤 神紋は高良山と同じ木瓜です。

本殿

本殿

千木は縦削ぎです。

関連する神社が芥屋に有るのでご紹介します。

大祖神社(芥屋)

この神社のに隣接するハレドン広場は、古事記に記された伊邪那岐命が禊を行ったとの伝わる場所です。

大祖神社の右には大門神窟の鳥居があります。この大門神窟は横に見える芥屋の大門と言われる洞窟で舟でしか参拝できません。祭神は綿積大神 大戸之道尊大苫邊之尊です。

芥屋大祖神社

手水舎
古い扁額
拝殿

神門は橘紋ですが、これは怡土城の橘諸兄のせいかもしれません。

梁の彫刻は波乗り兎 大幡主(塩土翁)のシンボルです。

由緒

 幣帛料供進指定社。大字芥屋大門崎に連れる大門奇勝の背景地域字久保地にあり。
祭神はもと天照皇大神,伊邪那岐大神,伊邪那美大神の三神なりしが明治四十四年八月無格社綿積神社,無格社産屋神社を合祀せしを以て,産瀲波武鸕鷀草葺不合尊,玉依姫命,草野姫命,底津綿津見神,中津綿津見神,上津綿津見神,底筒之男神,中筒之男神,上筒之男神,神直日命,大直日命,八十抂津日命を加へ奉齋せり。祭日は九月二十三日なり。

糸島郡誌

由緒書きの祭神に神社に痕跡が残る塩土翁と山幸が入っていませんが、明らかに塩土翁と山幸を祭る神社です。伊邪那岐に関しては姪浜の住吉神社にも同じ伝承があることからいずれかが禊場所なのだと想像されます。

境内社

塩土翁と彦火々出見尊

天満神社(菅原道真) 宇気神社(豊受姫神) 八幡神社(応神天皇) 松原天神社(彦火々出見 豊玉姫)

福岡では大幡主の名前が消されていて別名に書き換えてある場合が多いので彫刻等は気を付けてみることが重要です。

解説

彦火々出見尊ですが、「記紀」には釣り針を無くした彦火々出見尊が塩土翁に対馬の竜宮城に行くアドバイスをしたと記載されており、この場所から彦火々出見が出航したのではにかと想像されます。

金龍寺

高祖とは通常 漢の高祖 劉邦のことを指します。

金龍寺の原田氏墓所

大蔵朝臣原田家畧歴案内
一、大蔵朝臣原田家は中国漢の高祖劉邦を始祖となし八十代信種公迄続いたが天正十五年四月十七日豊臣秀吉九州征伐の砌反抗して滅亡した。
一、後漢孝霊皇帝の曽孫阿知王は応神天皇二十九年九月五日(西暦二八九)その子都賀王並びに七姓氏十七県民と共に備中国窪屋郡大倉谷に上陸しここに住む。
一、朝廷か東漢の姓と使主の位を賜り斉蔵の長官に任じ(大蔵省)奈良県高市郡明日香村桧隈に住居を賜う。
一、呉の国に使いして四人の織女」をつれ帰り養蚕染色機織裁縫の術を教え飛鳥時代の華と咲いた。
一、坂上の姓と大蔵の長官に任じ、後に姓を大蔵と賜り忌寸後に宿禰を賜った。坂上〇同田村麿等大きに功あり喜祥元年三月朔日朝臣の位を賜う(日本書紀)
一、征西将軍大蔵春実は九州に下り逆臣藤原純友の乱打ち平げ功に依り太宰弐竹善守に任ぜられ筑前築後豊前壱岐対馬の管理職となり基山の椽城に居た。筑紫郡原田に白を築き姓原田と改む。
一、後に中川城山に岩戸白を築く(岩戸村)種村は刀伊の賊を種光は何番の賊を打ち退けた。
一、種直は安徳天皇を以上に迎え安在所とした為帝は御所号を賜った。依って岩戸、高祖 ともに御所と呼んだ。
一、種直は平家滅亡の後。高祖に城を築いた。建仁三年大蔵朝臣家菩提所として伊勢城戸の列法に月見山別館(現在金龍寺)を建立す。
一、種照は文永十一年十月二十日高句麗蒙古の混成軍弐萬八千人と筥崎浜にて戦い神社裏で戦死す。
一、種之種房兄弟は弘安四年五月二十日再び来襲した十四万人の大軍を今津浜に撃って殆全滅せしめた。
一、興種は父弘種菩提の為曹洞宗金竜寺を建立した。
一、隆種は波乱万丈の戦国時代に良く対処して来て雄将と言われ乍ら晩年内憂外患の障害を終わった。
一、信種は豊臣秀吉九州征伐の砌老臣の言をいれず炭鉱してここに滅亡す。原田歴代の英将此処に眠る。
晋山式記念昭和四十八年四月二十九日 曹洞宗太祖山金竜寺世話人一道 案内版より

分析

1、主祭神 彦火火出見と相殿の玉依姫は舅と嫁の関係になります。そして彦火火出見と神功皇后は先祖と子孫の関係になります。県主 五十迹手と神功皇后の関係は同じ天日鉾という先祖を持っている点で共通していますが、玉依姫と神功皇后については夫の安曇磯良の先祖ですが五十迹手については、継母方の先祖になるので直接の関係は、見いだせません。


2、瓊瓊杵尊と木花開弥姫の墳墓は鹿児島にあり、二人の息子とされる彦火火出見との接点がこの地では見いだせない。


3、神輿が上る高磯姫とは猛五十姫(彦火火出見の別名)もしくは豊玉姫のことであり彦火火出見の母もしくは妻を指しているのではないかと考えられる。


結論として本来の神は彦火火出見と鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)もしくは豊玉姫と玉依姫が本来の神であったと考えられます。

ただ一つ彦火火出見は瓊瓊杵尊の実子ではなく天日鉾の実子でもありません。
出生が明確ではありません。
ヒントとなるのは神社の名前高祖です。 
同じ山に高祖に縁のある一族の墓所があるので行ってみましょう。

史跡 「怡土城跡」

この案内板を見る限り応神天皇の時代から奈良時代まで飛んでいます。私の調べたところでは、日田の大蔵氏は飛鳥時代にすでに日田にいて日下部氏に使えていたはずです。「日本書紀」では東漢氏は、蘇我氏の親衛隊と記されています。

弓月の君(秦氏)の祖 「記紀」においては応神天皇の時代 帰化したと言われる これが東漢氏のことであればこの一族の前に同族の祖先が移住していて、それを頼って帰化したと考えられる。

つまり彦火火出見も同じ漢の一族であったのかもしれません。
高祖の名はその名残なのかもしれません。








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