香原神社

福岡県

香春神社

北九州香春岳の麓に古宮が存在します。

由緒

福岡県田川郡香原郡香春町鎮座
県社 香春神社御由緒(略)
一、祭神及ビ創立
第一座 辛国息長大姫大自命神代二唐ノ経営渡ラセ給ヒ崇神天皇ノ御代ニ御帰国
香春一ノ岳ニ鎮リ給フ
第二座忍骨命
天照大神ノ第一皇子ニシテニノ岳ニ鎮リ給フ
豊比売命
神武天皇ノ外祖母住吉大明神ノ御母ニシテ参ノ岳ニ鎮リ給フ

当神社ハ前記ノ三柱ノ神ヲ奉斎セル神社ニシテ遠ク崇神天皇ノ御宇リニ創立セラレ、各神霊ノ香岳山頂三ヵ所ニ奉祀センガ元明天皇ノ和銅二年一ノ岳南麓ニ一社祭リ三神ヲ合祀シ香春宮ト尊称セラル、延喜式神名帳ニ有ル、豊前一宮六座ノ内三座ナリ
明治四年九月郷社ニ列セラレ、香春神社ト改称
明治六年七月十五日県社ニ列せラレ今日ニ至ル
香春神社         案内板より

高良玉垂神秘書 第一条
天照大神の御子は、四人おわします。三人は天照大神より四代まで継ぎたまう 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊の御弟をは 天津彦々瓊杵尊 此御弟をは彦火々出見尊 此御弟を彦ソソリノ尊申したてまつります。このソソリノ尊は神代を継ぎ給わざる故に海の遠くへ参らせ給うなり。

第二座の天忍穂耳ですが「高良玉垂神秘書」では天照大神の長男とされるのが天忍穂耳尊です。「記紀」での記載では栲幡千千姫との間に瓊瓊杵尊をもうけたことになっています、「高良玉垂神秘書」では兄弟と記載されていますが、阿蘇の別の神社では、子供は瓊瓊杵尊ではないようです。

更に三座の豊比売命ですが、「神武天皇ノ外祖母住吉大明神ノ御母ニシテ参ノ岳ニ鎮リ給フ」「高良玉垂神秘書」では「彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神なり、その御子住吉五神といい二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命と申すなり。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男と申すなり 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男とあります。」と記載があり豊前でも彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神と認識されていたようです。

参道

昔 新羅の神が香春に住んだので鹿春神と云ったとあります。
消去方で考えると一座の辛国息長大姫大自命のことでしょうか?

ニノ鳥居と香春岳

狛犬

神橋この上に拝殿があります。

御神木

境内

神の宿る 山王石
 昭和14年6月30日、午後3時 かつてその威容と峻厳なる姿から神秘の御岳と呼ばれ、古くから畏敬の念を持って人々に親しまれた眼前の香春岳一の岳山頂より、轟音と共に降って沸いた如く巨大石が落下し、静かに当時そのままの雄姿で現在地に鎮座しています。
 香春神社神殿は直撃を免れ、人災も無く、正に奇跡の神としか言い様のない神秘の出来事であり、人々が奇跡の神として、この身に奇跡の授かりをと願う参拝者が多く見られるようになりました。
 巨大石は、山頂の山王神社にちなんで「山王石」と命名され、奇跡神秘な神業、神の宿る石として香春神社で祭られております。         以下略       案内版より

手水舎

拝殿 本殿

拝殿の兎の毛通は鷺です。阿蘇の神の象徴です。

千木は外削 本殿彫刻

香春神社(有形文化財)
創建及び沿革
和銅二年(709)一ノ岳南麓に一柱を建立し、三神を合祀したのが起こりとされ、延喜七年(903)延喜式神名帳に「田川郡三座」「香春社」として名前があげられる、戦国期豊臣秀吉九州平定につき社領没収等により神社衰退、小笠原藩によって再興し、明治四年「香春神社」として改称。同六年「県社」に定められ現在に至る。建築物として鳥居や手清盤などは江戸初期であるが本殿以下は文化文政の頃に建て替えが行なわれ今に至っている。ただし、西側回廊については損傷激しく平成に入り改築されている。

以下略

摂社

山王社

境内社

稲荷神社

実はこの神社は豊前では宇佐八幡宮より古く古い資料では宇佐ではなくこちらの神社を一之宮としているものもあります。二座と三座に関してはわかりますが、わからないのが一座の息長大姫大自命でした。息長帯足姫のことかとおもいましたが、それも崇神天皇の時代とありますので違います。神功皇后の一族であてはめてみると、多分大自ではなく太目姫(うずめひめ)のことであることがわかりました。

太目姫(うずめひめ)は別名 天細女 境内にあるうかのみたまと同じ神のことです。百嶋系図では、猿田彦以前に天細女が天忍骨と結婚していて大歳神と神功皇后の母を授かったように書かれています。猿田彦の別名を知れば納得出来るかもしれませんが、それはまた別の機会に

古宮八幡宮

続いて第三座に鎮座する豊比売命ですが、採銅所といわれる奈良の大仏の大半の銅を搬出した場所の近くに建っています。

境内

一ノ鳥居と並んだ蛭子社

祭神 豊比命 神功皇后 応神天皇
社歴 以下略

由緒

古宮八幡宮 累縁起
御祭神
一之御殿 豊比咩命
二之御殿 神功皇后
三廼御殿 応神天皇
古宮八幡宮は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豊比咩神社の本社でありその最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曽隈という所である。
香春岳三山に祀られる神々は式内社豊前国座のうち三座でその一ノ岳に鎮まる香春神社の神は辛国息長大姫命で「豊後風土紀」に新羅の神が渡ってきて住み着いたとある。三ノ岳の豊比咩命を祀り養老四年(七二〇)宇佐八幡社の託宣で三ノ岳の銅を掘って長光氏が鋳造した神鏡を宇佐宮放生会に奉納した縁で貞観元年(八五八)応神天皇 神功皇后を勧請して八幡神社の呼び名となる。
永禄四年七月(一五六一)大友義鎮日向肥後豊後の軍勢三万余騎を率い香春城主原田五郎義種と公ゆる時社殿宝庫を損失、その後慶長四年(一五九九)旧社領より現在地に移御する。
以下略         古宮八幡宮   案内版より

拝殿 本殿

拝殿

社殿彫刻千木は外削ぎ神紋は違い鷹羽

ここで得られた情報は住吉大神の外祖母と阿蘇氏の神紋 違い鷹羽と以前の社殿が阿曽隈ということです。

  1. 昔 新羅の神が香春に住んだので鹿春神と云ったとあります。
  2. 辛国息長大姫大自命神代二唐ノ経営渡ラセ給ヒ崇神天皇ノ御代ニ御帰国春一ノ岳ニ鎮リ給フ

香春神社に伝わる伝承が香春一の岳にあります。

現人神社

由緒

現人神社縁起 通称「お申様」
御祭神 都怒我阿羅斯等命
原田五郎義種命
 第一座の大神は、意富加羅国の王子で垂仁天皇の時代に新羅の姫神(比咩語曽神)の跡を慕ってこの地に鎮座しました。
 第二の大神は筑前三笠城主原田次郎棚直公十三代の子孫で、香春城主でしたが永禄四年大友儀鎮に攻められ討ち死にしました。
 没後、この里に疱瘡が流行した時、神霊のお告げ「今より阿羅斯等の許に鎮まり猿を使いとして万民を救う」があり、現人大神と合祀しました。それ以後、この地方に流行の疱瘡が治りました。
住古より武運長久、疱瘡又は小児に多い「ちり」という病を守護する大神で、綿布の「くくり猿」は諸病退徐のお守りです。
 毎年旧十月初申の日が大祭で、旧小倉鉄道駅は汽車賃を二割引きして後援、出店も立ち並び「金の猿」替えも行いました。
平成二年十月六日
田川ライオンズクラブ八周年記念事業            案内版より

都怒我阿羅斯等命は新羅の姫神を追ってきた神といえば天日鉾をさします。

境内

境内は拝殿以外の装飾はありません。

拝殿 本殿

拝殿

現人神社縁起記の写し

ここで外の縁起とほぼ同じですが、一点気になる文があります。

当社に鎮まり・・・現人大神は都怒我阿羅比等命は神倭磐余彦天皇の大津兄おまして新羅の国王となりました御毛入野命の衣田みましくて磯城瑞恒宮の御代に比売神を追い慕いて我国に糸来り戠北國筍飯乃浦に留まられては国人其額小冠を載せらるを恩賜り角と思い額小筍ある人と云ひ平浦を角鹿と云へるに困りて都怒我阿羅斯等と云へり阿加流比売は我が豊国にあり比咩語曽神と為りませ跡を追い慕い来て此処香春の嶽萱の森で契りました。以下略
縁起より

神武天皇の兄三毛入野命が新羅の王で香春神社にあった崇神とは天日鉾のことでありここで赤留姫と結ばれたと書いてあります。さらに小冠に付いている飾りを角と思い平浦を角鹿というのに困って都怒我阿羅斯等と言った等が書かれています。

本殿彫刻

摂社

貴船社 須佐社

  1. ここで判ったことは新羅の王は神武天皇の兄 三毛入野命である。
  2. 天日鉾はここで赤留比売と出会った。

つまり辛国息長大姫とは赤留姫と娘のことで天忍骨はその夫であると考えられます。

「三国史記」では天日鉾の祖先昔脱解は捨て子であったが、先代の王に認められて婿になり四代の王になったと伝わりますが、骨品制の新羅で捨て子が王になるとは考えにくく倭から王を迎え入れたと考えたほうが自然です。

丹後の籠神社にも「古代にこの地方から一人の日本人が新羅に渡って王になった。」という伝承とも合致する。

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