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宝満山 竈門神社

福岡県

現在 紅葉と「鬼滅の刃」で大変なことになっているのが大宰府の竈門神社です。

映画 鬼滅の刃 無限列車編

参道

画像はお借りしました

現在は紅葉しています。

式部稲荷

式部稲荷
祭神 宇迦御霊神

境内

手水舎

拝殿 本殿

拝殿
本殿

拝殿の向きは南 神紋は桜 千木は平削ぎ 女神です。鴨玉依姫なら龍の彫刻が有るはずです。

由緒


主祭神
玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
相殿神
神功皇后 (じんぐうこうごう)
応神天皇 (おうじんてんのう) – 第15代。神功皇后皇子

天智天皇の御代、九州一円を統治する大宰府政庁が置かれた際、鬼門にあたる竈門山(宝満山)では大宰府また国家鎮護のための祭祀がはじまりました。頂上の上宮が建つ巨岩の下からは和同開珎をはじめ皇朝十二銭や奈良三彩など、奈良時代から平安初期に国家的な祭祀が行われていたことを示す数々の出土品が確認されています。

天武天皇二年(673)、開山心蓮上人が山中で修行中、にわかに山谷震動して貴婦人が現れ、「われはこれ玉依姫の霊、現国を守り、民を鎮護せんために、この山中に居すること年久し。」などと告げ、金剛神に姿を変じ九頭の龍馬に駕して天を自在に飛行しました。心蓮上人は直ちに朝廷にその旨を奏上すると、朝廷の命によって上宮が建立されました。

宝満山が大宰府政庁と密接な関係にあったことから、最澄や空海をはじめ、遣隋使や遣唐使など大陸へ渡る人々が航海の安全と、目標達成のために登拝し、祈りを捧げた山として大切に守られてきました。

中世以降は修験者による信仰が盛んになり、険しくも秀麗な宝満山の姿に多くの山伏が憧れ、厳しい修練を重ね、世の平安と人々の除災招福のための加持祈祷が行われました。

江戸時代の博多の禅僧で著名な仙厓和尚も宝満山に魅了された一人で、頂上下の竈門岩の伝承に深く感銘し「仙竈」の文字を大書して「仙厓敬書」の銘を刻みました。

竈門神社は、承和二十二年(803)に従五位上が授けられ、その後徐々に位階を進め、嘉承元年(1106)には正一位を贈られ、『延喜式』には名神大社にも列せられました。そして明治二十八年(1895)、竈門神社は官幣小社に列せられました。

竈門神社HPより

境内

五穀神社
水鏡
招霊の木

天岩戸で天細神が招霊の木を手に神楽を踊ったと伝わる

愛敬の岩

目を閉じて好きな人を思いたどり着けば思いが叶うそうです

竈門神社の恋守り「むすびの糸」は赤い糸
絵馬は今「鬼滅の刃」ブームです
末社 夢想権之助神社

宮本武蔵に唯一勝ったと伝わる棒術の達人

末社 須佐社

上宮

奥宮 式部稲荷
上宮 画像はお借りしました

頂上付近には玉依姫命の伝承にまつわる馬蹄石や竈門岩などがあり 上宮は北を向いています。

八幡竈門神社 画像はお借りしました

ここの竈門神社の他に鬼の伝説があることから大分の竈門神社も大騒ぎだそうです。

分析

「竈門山」名の由来
「竈門山」という名の由来は、この山の九合目にある竈門岩によるという説と『筑前国続風土記』には、この山が、カマドのような形をしていて、常に雲霧が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上がっているように見えるので竈門山というのだと書いてあります。これは太宰府天満宮方面から見る山の姿です。
多くの方に最も親しまれている「宝満山」の呼び名は、神仏習合によって、この山に鎮まります神が、「宝満大菩薩」とされたところから、山伏の活躍と共に「宝満山」の名称が広く浸透して今日に至っています。
宝満山の名は、山家宝満宮の祭神・宝満大菩薩が勧請され、山伏の活躍によって広められた、とあります。また、竈門山の名は、竈門岩と太宰府天満宮方面から見る山の姿が竈に似ていることに因む、とあります。竈荒神様の一人に(鴨)玉依姫が百嶋神社考古学では当てられています。

三宝荒神に戻って、三宝荒神は一人の神様を火神に、二人の神様を竈神に据えることが多い。各地の荒神社をみてみますと、火神には、素盞鳴尊、彦火々出見命、金山彦が当てられることが多くあり、竈神には奥津彦神、奥津姫神(長髄彦姉弟、大山咋・玉依姫)を当てるのがみられます。
荒神様の神徳は「水神」、「農業神」でもあり、「牛馬の守護神」でもあり、「火災防止の神」、「招福の神」でもあり、幅広い霊力ある神様でもあります。
竈荒神、三宝荒神共通に見られる神様が金山彦です。
別名「迦具土神、軻遇突智神(かぐつちのかみ)」と云う。
金山彦は製鉄の神様であり、鉱山開発の神様であるとも云う。有名なのは、「天叢雲の剣 あめのむらくものつるぎ」を作られた神様であるという。

百嶋先生講演から
山家宝満宮

山家宝満宮縁起
創立不詳、宝満宮由来書に曰く、当社山家宝満大神は勧請由来の義に在らす化現より以来降臨の本津宮にて万代不易の廟窟也と神俗共に申伝侍る其後人皇三十七代孝徳天皇(附記孝徳天皇は第二十六代なり)大化二年丙午歳神功皇后応神天皇を奉祭せりと云ふ宝満宮由来書に曰く、当社山家宝満大神の由来を尋ね奉るに海神豊玉彦の御子玉依姫命と申奉る地神五代鸕鷀草葺不合尊の神皇后也治世八十三万六千四十二歳神武天皇を日向の国高千穂と云ふ所にて産み給ひ然後玉依姫命山家奇魂之地に入給ふと也。人皇十五代姫帝神功皇后(附記、神功皇后は天皇としては数へ奉らず)三韓退治の時当社の御神出現あり我は是神女なり名は豊姫命と申と宣玉ふ千珠満珠を父豊玉彦に偕受け官軍を助け給ふ云々とあり。
宝満宮縁起に曰く、人皇九十代後宇多院(附記、後宇多天皇は第九十一代なり)弘安四年に蒙古国入寇す時に山の形海水にうつる賊恐れて以て石ありとす或は社中より光物飛散して賊船を漂泊はす或は賊皆神罰を蒙りて船中に悪疾を憂ひて迷動し終に陸に上る事を得ず滅ひうせにけりとなん一重に当社大神の神変なりと申伝へ侍る。同後宇多院の御宇に筑前守藤原経衡と云ふ人大なる旱にあへり雨を此の神に祈る時鏡を鋳て以て神前に掛け和歌を詠して曰く「雨降れと祈る印の有るならは水鏡とも思ふへきかは」と(此歌新続古今集に見えたり)玆に於て雨降ること大なりと云ふ。
又源紹運願書を捧けて曰く大神出現於世慈念衆生猶如赤子威加四海徳播九州昔者海外異類毒乱国経以大神之威神力数拒布之朝家信敬老中使降綸綍尊為国惣社と云へり斯る尊き御神なるか故に国々所々に勧請して崇祭らずと云ふことなし云々。
宝満宮縁起一節に曰く、当社山家宝満大神は蓋し竈門大神御一体なり則ち筑前国御笠郡山家庄の県社として民生安堵の霊壇なり。
承応三年坤の歳夏四月中旬に新に御神託ましましけるにそ皆人心耳をすましたる其の年造営成就して神体遷宮祝儀を陳る中に御巫女に託て宜く我異国より帰朝して此所に鎮座すること星霜既に一千四百余歳を経て今に至りて社頭七度の造営に及ふと雖も就中今度の造営を以て神慮納受ましますことまえまただひに過たり猶も神忠を蓋さは宜敷長久を守らんとて神は昇らせ給ひしなりと。
宝満宮由来書に曰く、人皇五十四代仁明天皇の御宇承和七年四月中使を下し従五位上を授け給ふと続日本後紀に見えたり。
人皇五十五代文徳天皇之御宇嘉祥三年十月勅使を下し筑前国県夕社の神に正五位の下を授け給ふと文徳実録に見えたり。
人皇五十六代清和天皇の御宇貞観元年正月二十七日正四位の下を授け給ふと三代実録に見えたり。
宝満宮由来書の一節に曰く、人皇五十七代陽成天皇の御宇元慶三年六月八日勅使を下し正四位の上を授け給ふ。
人皇七十三代堀河院嘉承元年十月三日当御神に正一位を授け給ふ勅使は太宰権帥大江朝臣匡房也和歌を詠して奉る。
「白幣神乃威を増本津宮竈門の山もおなし和魂」幣帛を捧け此歌を奉納し給ふ于今御宝殿に有之とあり。
天正十五年小早川隆景公当国筑前を領し給ふ時当社の宝満宮は竈門山宝宮の本宮たるに依て神領一町五反の田地を寄附し給ふ(今に田の字に残れリ)然るに隆景公の養子秀秋卿の時該社領は全て没収せらるとあり。永正十八年辛巳大檀那筑紫小野守藤原朝臣満門社殿造営すと棟札あり。
承応二癸巳暦夏吉辰大檀那松原筑前守豊朝臣忠之社殿造営すとの棟札あり
天明乙巳年孟春三月吉日氏子中にて社殿を再興せりと云ふ棟札あり是れ則ち今の社殿なり十月十九日は恒例の大祭として神輿を笠懸の遥宮に渡御ありて神楽を奏し笠掛ひ式を執行し其日遷御なる此時伶人楽を奏して神輿に陪従す其の道路を音楽道と称す此の外年中の祭勢多し祠官人二十五人ありて是れを執行せしも弘治三年七月九州の探題大友二十八代の後胤左衛門督義鎮の嫡子義統と申す者邪法に溺れ神社仏閣を没倒せり。当社領も検地検断せられし故祭礼も絶え果て又社家神人等は皆農人に下れりと云ふ。
宝満宮由来書の一節に曰く、欽明天皇の御宇四月吉日選中申酉祭始と云々。西宮記に曰く延喜十五年四月中九日配祭始常云々。賀儀に葵祭有り此の祭に勅使下り奉幣を捧げ葵を以て祭らるる由所見有之云々。祭過きて其葵を大内に捧け奉る此の祭は大事なりとあり。
明治五年十一月三日村社に列せらる。明治六年九月十日郷社に列せらる。以下略

総合すると竈門神社の本当の神は三宝荒神と宝満明神 佐賀の淀姫であったものが その代表である崇神(神武)の母 上賀茂神社の玉依姫が当てられたようです。しかし疑問もあり神紋の桜は本来 木花開弥姫の神紋であり神武天皇の母を祀っているのであれば、鴨玉依姫ではなく神玉依姫であると考えられます。これを同一視したのですが、もしかしたら元々は神玉依姫を祀っていたのかもしれません。

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