宇佐八幡宮

湍津姫

宇佐八幡宮には数回行ってその都度驚かされることが見つかります。

参道

クラウス号
明治・大正・昭和と走り続けた車両で全国に4両しかないそうです。

『宗家第九代を、流祖秘作の木刀と共に宇佐の士に密伝する。
依って茲に始祖の神髄たる誠心直道之碑を建立し その印となす。』とあります。

宇佐神宮
松から朝日が赤い大鳥居 春霜にあとつけて詣でる
貞亨元年(1684年)7月、大淀三千風は宇佐神宮を訪れる。
種田 山頭火

神武天皇碑

呉橋 
勅使のみが渡ることを許される勅使道にある橋です。

養蚕神社 祭神 天照大神 八坂神社 素戔嗚命

黒男神社
祭神 武内宿禰

宇佐神宮宝物館

手水舎 左三つ巴

下宮

嵯峨天皇も弘仁年間(810年代)勅願によって創建され、上宮の御分神をご鎮祭になったことがきっかけで、八幡大神・比売大神・神功皇后は上下御両宮のご鎮座となりました。
「下宮参らにゃ片参り」と云われる所以です。下宮の八幡大神は、御饌(みけ)司るとともに、農業や一般産業の発展、充実をお守りになるご神威を発揮されます。古くから日常の祭祀には、とくに国民一般の祈願や報賽(ほうさい)が行われてきました。

第一殿 八幡大神

第一殿 比売大神

第一殿 神功皇后

大神祖神社 大神比義
この人が応神天皇を持ち込んだ人だそうです。

御霊水

御霊水
「八幡宇佐宮御託宣集」には、欽明天皇三十二年(571年)辛卯、八幡大神、筑紫に顕れたまふ。豊前国宇佐郡薜峯菱形池の間に、鍛冶の翁有り。首甚だ奇異なり。これに困って大神比義、穀を経つこと三年、籠居精進して、即ち幣帛を捧げて祈って言く。「若し汝神ならば、我が前に顕るべし」と。即ち三歳の小児と顕れ、竹葉に立ちて宣く。「我は是れ日本の人皇第十六代誉田天皇なり。我が名は、護国霊験威力神通大自在王菩薩なり。国々所々に、跡を神道に垂れ、初て顕るのみ。」と記され、八幡大神がこの御霊水の辺りに初めてご顕現になったと伝えています。

西大門(重要文化財)

随神は阿蘇の神と高良の神

宇佐八幡宮の参拝は 二礼四拍手一礼で一説には 人や神の魂は、「和魂」、「荒魂」、「奇魂」、「幸魂」の四種類が有り、この四つの魂にそれぞれ柏手を打つのが四柏手の原型と云われていますが 井沢元彦氏の「殺害された神」であり、そのタタリを恐れたために、「死拍手しはくしゅ」で封じ込めているのだと考察した。これは殺された神をともらう参拝方法と言われており 宇佐八幡宮のほかには 出雲大社 弥彦神社しかみあたりません。 

由緒

宇佐八幡宮

祭神
主祭神は以下の3柱。
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) – 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) – 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) – 別名として息長足姫命とも
いずれも上宮・下宮の両方に祭られている。

由緒
八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。
全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。
宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。
御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。
これが宇佐神宮の創建です。
宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。
三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立されました。
応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしています。神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、そのご威徳が高くあらわれています。
八幡大神の御神徳は強く顕現し、三殿一徳のご神威は奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名です。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社16社に列されています。また、一般の人々にも鎮守の神として広く親しまれてきました。
八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。その長い信仰の歴史は宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができます。千古斧(おの)を入れない深緑の杜(もり)に映える美しい本殿は国宝に指定されており、総本宮にふさわしい威容を誇っています。
                              宇佐八幡宮案内より

拝殿・本殿

一の殿 八幡大神(応神天皇)本殿の脇殿(後見人)は、住吉大神(武内宿禰)ですね。

二の殿 比売大神  脇殿(後見人)は、北辰神社(天御中主神)です。

三の殿 神功皇后 脇殿(後見人)は、春日大神(高良の神・阿蘇の神)です。

三の殿の脇には八子神社
神仏習合下の両部神道に由来するもの。
仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に八人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社。
八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。
太歳神・大将軍・太陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神

証言

宇佐八幡宮は 亀山(古墳)の上に建っており 明治の改修の折 三ノ御殿の下より 『比売大神』の棺が 出土されたが 急いで戻したとの記載が 松本清張氏の『邪馬台国論』に記載されているほか 地元でもかなり知られていることです。
目撃されたのは、明治40年・昭和8~17年 2度あったそうです。

謎の石棺の目撃証言

宇佐神宮改修時に石棺が二度目撃されている(明治 40 年、昭和 16 年)。明治 40 年(1907 年)、神楽殿前の広場にそびえる楠の大木と、内陣・三之御殿の向って右側にある楠の巨木が根を張り出し、建物の一部が傾きかけた。そこで、内陣の部分をある程度掘り返し、根を切断すると同時に建物の一部を修理する工事が行われた。その時、巨大な石棺がその全貌をあらわした。目撃証言によれば、「角閃石の一枚岩をくりぬいて作ったと思われる完全な長持形の石棺だった。石の節理の条件からいって耶馬渓付近のものと思われるし、国東半島にはこういう石は存在しないそうである」「この石棺にふれることは許されなかったので、目測にたよるほかはなかったわけなのだが幅も高さも1メートル強、長さは2メートル数十センチ、しかも表面はまるで鉋(かんな)でもかけたようなきれいな平面になっていた。とうぜんのことだが、蓋はべつになっており、その間からはみ出したと思われる朱が、横に一線正確な直線を真赤に描き出していた」

(目撃者の山
本聴治の証言を高木彬光が著書『邪馬台国推理行』角川書店 1975 年で紹介)。

亀山は墓所

①宇佐神宮が建つ亀山の山頂(直径 70~80m)に、伝承通り北麓の菱形池を掘った土で盛土したのが卑弥呼の「径百余歩の冢」。また『八幡宮本紀』は本宮が建つ山上の周りを 390 余歩と記すので直径は 125 歩となり、「径百余歩」と一致する。一方、亀山の下半部に第二次大戦時の防空壕が残っており、地層が歴然と露呈し自然の地山である(原田大六著『卑弥呼の墓』六興出版 1977年)。しかし、初期古墳でも自然丘陵を利用し山頂部分に手を加えた例が多く、亀山も同様である。

②昭和大造営(昭和 8~17 年)の昭和 15 年頃、地下に宝物殿を造るため拝殿前広場を長さ数十メートル、深さ数メートル掘り下げたが地層は全く存在せず、性質の違う玉石や角石が無数発見され、山頂は人工的に盛土されている。

③『八幡宇佐宮御託宣集』は「宇佐廟」、また『延喜式』神名帳は「大帯姫(神功皇后)廟神社」とする。「廟」は「みたまや」とか「もがりの宮」で、山頂は墓所=冢である。

④神社と廟は、もともと同義語で墓所を意味する。大帯姫廟神社は「廟神社」と言葉が重複している。この重複を知りながら、あえて「廟神社」としたことには深い意義があり、亀山が墓所であることを強調している。

(市村其三郎「神功皇后廟神社の謎」。秋田書店『歴史と旅』1976 年 6 月号に掲
載)。

宇佐公康氏著書より

以前ブログに書いた宇佐八幡宮の石棺(比売大神)について宮司家の出であったとされる宇佐公康氏の著書があったので引用します。

社・大帯姫廟神社の三社となり、世にいう八幡三所として、朝鮮様式の八幡造りの華麗な社殿の形体がととのったわけである。

 ところが、この三殿のキザハシ(階段)のヒサシ(庇)は、古くから今もなお、そろってならんでいない。宇佐神宮は、三殿ならんでいる他の神社とちがって、とくに、向って左から第一殿・第二殿・第三殿となっているが、二之御殿と称する真ん中の御殿のヒサシがひっこんでいて、そのかわり申殿(もうしでん)と呼ばれる拝殿のヒサシがそのひっこんだ部分に割りこんだような形となっている。

これには重大ないわれがあるのであって、古来、三三年目ごとの式年遷宮に当っては、「二之御殿の位置をうごかすことは絶対にまかりならぬ」と口伝されている。宇佐家の伝承によると、二之御殿の真下には「みはかりいし」(御量石)という石があって ~中略~ この石を中心に二之御殿が建てられているわけである。

 御量石という口伝の石は、明らかに石棺の蓋石である。これを実証する事実として、大正五年(一九一六年)から大正七年(一九一八年)にかけて、内務省神社局直営の本殿改築工事に際し、当時の神社局営繕課角南(すなみ)技師が派遣され、設計をはじめとして工事万端の指揮監督に当ったが、角南技師は「三殿のヒサシが乱杭歯のようになっていては体裁が悪い」といって、三殿のヒサシを一様にそろえてならべるために、二メートルばかり後ろに下げる設計をした。

 これに対して、当時の宮司、筆者の父先代は、口伝を盾に取って極力反対し、原型のままの改築を主張したが、若い角南技師は口伝など信用せず、宮司と意見が対立した。そこで、結局、はたして御量石と称するものがあるかどうか、旧御殿を取り壊してから、二之御殿を真下に掘って調査することになった。

 白張(はくちょう)という白(し)ら張りの布製の衣服を着た二人の白丁(はくちょう 白張を着た作業員)が、キグワという木で作ったクワで向い合って一メートルほど掘ると、かちんと音がして平らな石に掘り当たった。調査に立ち会っていた角南技師と先代は思わず顔を見合わせた。そして角南技師は「もうよい。わかった」といって調査を中止し、三殿の改築工事は原型を復元して完成した。

宇佐公康氏の著書『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』

『逆説の日本史(小学館)』の井沢元彦さんなどは、二之御殿の祭神を卑弥呼(ひみこ)であろうとし、同時に宇佐八幡そのものを、その墓であろう、と推測しておりました。

宇佐公康氏は、そういった卑弥呼や神功皇后といった人物の墓であろうとする仮説を「主観的偏見による推理臆測にすぎず、曲学阿世の徒の詭弁である」と辛辣に完全否定しています。

宇佐公康氏の著書『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』

宇佐家の古伝によると、大神比義の心眼に童子の姿で幻じて、「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、応神天皇の神霊ではなく、神功皇后と武内宿禰との不義密通によって生まれ、四歳にして早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊である。
本当の応神天皇は神武天皇の皇孫である。そのいわれは、神武天皇が東遷の途上、筑紫国菟狭の一柱騰宮に四年のあいだ滞在し、菟狭津彦命の妹、その実は妻の菟狭津媛命に娶って生まれた宇佐津臣命またの名は宇佐稚家(うさのわかや)が、越智宿禰(おちのすくね)の女常世織姫世織姫命(とこよおりひめのみこと)に娶って生まれた宇佐押人で、菟狭族から出て西日本を統一してから、中央に進出して古代日本の国家が成立したと伝えられている。

宇佐公康氏の著書『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』

神武天皇は菟狭を出立して、筑紫国の岡田宮に立ち寄り、さらに東遷の途についたが、古代日本国家統一のなかばにして病気になって、惜しくも安芸国の多祁理宮で亡くなった。
そこで、神武天皇の兄と伝えられる景行天皇が継承して、九州地方の服従しない部族を平定するために、親征して各地に転戦したが、天皇もまた壮挙の途中、病気にかかり阿蘇の高原で亡くなったので、智保の高千穂嶺に葬った。「智保の高千穂嶺」の名は、『大日本史』にも見えていて阿蘇の馬見原高原をさしていうのであり、「筑紫の屋根」ともいわれ、現在の熊本県阿蘇郡蘇陽町大野にある幣立神社(日の宮ともいう)の鎮座地が、景行天皇の御陵であると伝える。

宇佐公康氏の著書『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』

分析

  1. 大元神社の伝承で宇佐に降臨した三女神とは端津比売である。
  2. 宇佐八幡宮の祖宮 薦神社で比売大神を祀ったのは崇神(神武)天皇である。
  3. 特に多家神社 弊立神社に縁が深い天皇とは多氏(阿蘇)縁の天皇である。
  4. 高良 阿蘇共に縁の深い人物である。
  5. 比売大神の脇神は天御中主(真ん中)の神であることを暗示している。

以上ことから二殿の比売大神とは、端津比売 通称 玉依姫であるという結論になります。

実際のところは、開けてみないとわかりませんが・・・

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