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川上梟帥(取石鹿文)

福岡県

川上梟帥(かわかみたける)

松野連系図

 有名な卑弥呼の掲載されている松野連(倭王)系図の第二一系図と第一系図の二代下に号川上梟帥(かわかみたける)と記載がある取石鹿文(とろしかや)の名前の記載があります。

川上梟帥(かわかみたける)伝承

小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。

熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される。川上梟帥を討伐後、日本武尊は弟彦らを遣わし、その仲間を全て斬らせたため生き残った者はいなかったという。

古事記 日本書紀

第13代景行天皇の第2皇子日本武尊は始め御名を小碓尊といっておられた。このころ筑紫(福岡県)を根拠地にして北部九州地方をおびやかしていた熊襲という豪族がいた。九州全土を征服して各地の穴ぐらに陣を張っていたが、その威勢に恐れて誰一人刃向う者がいない。そこで天皇は皇子小碓尊に熊襲征伐を命じられた。これが西紀82年12月でこれを平定するまでには凡そ6年間かかったという。小碓尊は英智と武勇にすぐれた方で、弟の彦王を大将とし武内宿禰を補佐役として筑紫の穴ぐらの本陣を攻めことごとく平げたが、その時、頭の熊襲たけるはいち早くどこかへ逃げ去ってしまった。あとで、川上へ逃げ込んだといううわさがあったので、尊は筑紫から舟に乗って肥前の堀江(神野町)に一たん寄港してから、さらに舟を蛎久まで進めここで上陸され、熊襲残党の隠れ場所をひそかに確められた。そのころ大願寺の山中で里の娘たちを大ぜいかり集め大酒宴を張っている者があり、それが熊襲であることがわかった。智謀にたけた尊は女に変装し、夜陰に乗じて里の娘たちの中へまぎれこまれたが誰も気付かない。尊は家来たちに酒をつぎながらも熊襲の頭から目を放さず、次第に酔いが回って座が崩れかかったころには、高枕でうつらうつら眠り始めた。ころはよしとばかり尊は「起きよ、熊襲っ」と叫びざま枕をけとばされた。はっと目をさました頭は上半身を起こして「何やつだ」と叫び、あわてて枕もとの太刀に手を伸ばした。それを取らせてなるものかとさっと一太刀浴びせて「われこそは筑紫で見参した小碓尊だ。天下をわが物顔に騒がしたふらち者め、これが天罰の制裁だ」
と振り上げた二太刀目がみごと頭の急所にきまってその場にどっと崩れ伏したが苦しい息の下から、「われこそは日本一の武勇者として誇り続けてきたが、われ以上に尊のような智勇権謀者のいることを知らなかった。尊こそはまこと日本一の武勇者なれば以後は日本武尊と尊称し奉る。われはこの川上の土地の名をもって姓を改め川上たけると称せん」
 といって息絶えたという。また、尊が二の太刀を浴びせようとした時「待て、われこそは………」といったことからこの辺を「まて村」つまり「真手」という名がつき、現在もその名が残っているという。
そして現在の健福寺の位置より約1kmほど北に最初行基菩薩が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという。

出典:大和町史P.657〜658 川上たけると真手 | さがの歴史・文化お宝帳より
日本武尊と熊襲タケル

実はこの川上梟帥「記紀」においては悪人のように記載されていますが、松野連系図に記載があるように由緒正しい血統のようです。

命名

どの文を読んでも共通するのは「武尊(たける)」の名を小碓皇子に与えたとあります。


では名を与えるとはどのような行為であろうか?

  1. 祖名継承法は先祖の名前の一部もしくは全部をとって生児に命名する方法で,襲名のように父方の先祖からとる形態のほか,父方母方の祖父母などから名をとる場合もある。祖名継承法には日本人の先祖観の反映をみることができる。
  2. 父母または祖父母がつけることが多いが、名付け親として長上の人に依頼することもある。
  3. 名はある意味で名付ける人の側の〈世界像〉を示すものであり,典型的には世界のさまざまな神話にみられる〈名まえを持たぬものに対して名まえを与える状況=創造の状況〉

信長・秀吉の例もあるように上位の者が下位の者に与えるのが命名であると云えるようです。

川上梟帥の母

 川上梟帥の生誕地は現在の糸島市波多江の産宮神社で父の名前は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)母の名前は奈留多比売(なるたひめ)で確認されているだけでは三人兄弟(川上梟帥 彦王(石鹿文) 淀(豊)姫)であったようです。

産宮神社

奈留多比売の名は「記紀」には記されていませんが、諏訪大社の祭神 建御名方の妻 八坂刀売神のことと云えば御存知の方も多いと思います。

奈留多姫

 この奈留多比売の女系で見ると母は雨宮姫 その雨宮姫の母は阿蘇津比売 更にその母は栲幡千々姫 その母は卑弥呼であったようです。

佐賀の川上で小碓皇子に名前を譲った後 川上梟帥はどうなったのでしょうか?

福岡県福岡市早良区原にその後の彼の一族を語る神社が存在します。

早良区諏訪神社

参道

通常諏訪神社の神紋は上社が根が4本の「諏訪梶の葉」下社が5本の「明神梶の葉」ですがこちらの神紋は左三つ巴です。

庚申塔
五穀神
五穀神
摂社

庚申 五穀神が二つ 不明摂社が一つです。

石橋

この造りは物部系の神社のようです。

拝殿
拝殿

不思議なことに拝殿の中の神社の神紋は右三つ巴です。

本殿

本殿の鰹木は五本 千木は縦削ぎ 男神です。

由緒

由緒書
寄贈者

当神社は、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座の諏訪大社下社御祭神八坂刀賣神(妃神)の御分社で鎮座や約480年前です。当社の特質は神話的軍系的血縁関係の神社とは異なり、原の地域住民が神恩と奉謝し、淳厚なる民風と作興するため連帯的扶助共存意識の基に情義道徳健康と養うとする産土神で原区域内に居住し本神社と崇敬する民子と他地区の方々で本神社と崇高する人々と鎮り加えて家内安全と守護されてる御神徳の厚き神社です。追之御神紋は巴紋で蛇神格化を意味し、防火防水の社紋であります。(昭和61年12月)

寄贈者の名前で目立つのが大神 真鍋 武田 そして神紋の巴は通常水の渦巻きを基本としますが、ここでは蛇神格化を意味すると記されています。更に神殿は男神で有りながら祭神は八坂刀賣神(妃神)です。

分析

実は川上梟帥は川上峡で誅殺されておらず、背振を越え早良で母 奈留多比売(八坂刀賣神)と共に新天地に旅立ったという伝承が存在します。

宮原誠一さんの資料では大神氏は都道府県 福岡県 およそ3,000人 大阪府 およそ400人 大分県 およそ310人中でも早良区に多く存在しています。

そしてこの大神一族の大神 惟基(おおが これもと)は大蛇の子であると記されています。

更に大神一族の大三輪氏の大神比義は、古墳時代の人物。宇佐八幡宮を創建し、日本で初めての祝職(神職)に任ぜられ 、宇佐八幡宮初代大宮司となった。また、大神氏の祖である 。左三つ巴は八幡というより大神氏の家紋のようです。

左三つ巴

大神比義が568年(欽明天皇29年)に勅命を受けて豊前国に入り、神社を建立したり祈祷につとめ、その子孫は宇佐神宮の創祀や宮司職に関わっていたとするものである。のちの710年(和銅3年)には勅定を得て宇佐神宮を建立し、その子孫は祝氏小山田氏の2氏を始めとして数百の家に繁栄したという、中野幡能の説。

ウィキペディア

推論

つまり川上梟帥の子孫は豊後に移住し大神氏を名乗り宇佐八幡宮を創建し、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)の息子として川上梟帥の後に初代大神を名乗ったと考えても不思議は無いと考えられます。

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