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稲佐神社

佐賀県

参道

神社の名は稲佐神社 この稲佐神社一帯は「稲佐山泰平寺」と呼ばれた神仏習合の聖域であったそうです。

平安時代この石段の両脇には十六の寺院がありました。

境内には樹齢300年以上の大楠が12本もあり、とくに社務所裏手にそびえる樹齢約600年の大楠は見事な巨木に成長しました。

境内

神門

見事な造りの神門です。

手水舎

拝殿

狛犬

ダイナミックな狛犬です。

拝殿
本殿

千木は縦削ぎ 神紋は鍋島茗荷 見事な彫刻の拝殿です。

由緒

祭神
五十猛命 大屋津姫命 天神 女神 聖王神 阿佐神
 
稲佐神社御由緒略記
古来、杵島郡の東部白石諸郷の鎮守にして、杵島山中の一峰稲佐山の中腹にあり、往古は同山南の尾向横平山に在しと傅ふが鎮座年代久遠にして之を詳にせず。
社伝に曰く、鎮座大神は天地剖判の時、天降りまして、国家を造立し給ひし天神及び五十猛命の神霊にして、五十猛神がこの山に樹木の種をまいて繁茂させ、「木の山」と呼ばれた云う。
後世推古天皇の御宇、百済国の王子阿佐来朝し此地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。 其の後、里人阿佐の霊を合祀して稲佐三社と云えり。
大同年中(806~)釈氏空海、神託を蒙りて当山を再興し稲佐泰平寺と名付けた、又、推古天皇十五年聖徳太子の命を奉し、大連秦河勝、当国を巡察し、田畑を開拓すること、十萬、大いに稲佐神社を尊崇す、聖徳太子は聖明王の佛教伝来の功を追誉せられ、河勝に命じて同親子の霊を稲佐神社に合祀せしめ、大明神の尊号を授けられたりと云う。
後稲佐大明神参道には真言十六坊が建立神宮寺が成立以来仏教守護の神として信仰を集むるに至る。
 貞観三年(861)従五以下、仁和元年(885)従五位上を授け賜う事、三代実録に見ゆ。
 文治三年(1187)白石五郎道益、白石郷の地頭職に就きたるや、大いに稲佐神を尊崇し その荒廃せるを憂い、源頼朝にその再興を請い、翌年造営完成す。 社人社僧を置き、武人をして流鏑馬式を行はしむる。(例祭の神事として今日に至る)の報せをうけた道秦は稲佐大明神を尊崇し、白石六郎道秦に到りては、蒙古襲来(文永の役1276・弘安の役1281)の報せを受けた道秦は稲佐大明神の御前に武運長久を祈祷し出陣、元軍撃退の功勲顕著なり(蒙古襲来絵詩の描かる)と亀山上皇より社領を加へられ、神恩に報いたり。
後、竜造寺・鍋島の領となり、歴代藩主も大神を尊崇し、山林の寄進・寺録の支給・神域の復古などをなし、神徳益々発揚し、この白石郷の宗廟として崇敬を集めることとなる。

阿佐太子が描いたと伝わる「聖徳太子二王子像」

阿佐太子が描いたと伝わる「聖徳太子二王子像」

解説
つまり五十猛の降臨地であり推古天皇の時代に百済国の王子阿佐が来朝し、父聖明王並びに同妃の廟を建てた仏教伝来の地に平城天皇の命を受けた空海が神託を蒙りて当山を再興し稲佐泰平寺と名付けたとあります。
つまりここは神道 仏教共に聖地であったということになります。

摂社

八幡神社

天満神社

稲荷神社

分析

五十猛とは素戔嗚の息子とされていますが、実の息子ではなく娘の天細女と結婚したことにより義理の息子となった別名 彦火火出見尊(山幸) 猿田彦 饒速日命のことをいいます。
五十猛が上陸した地はおそらくここで足跡からも北上して行ったと考えられます。

縫殿池

近くの弁財天を祭る縫殿池

 そして聖徳太子の肖像画を描いたと伝わる阿佐王は聖徳太子に合った生き証人であり、聖徳太子の証明を伝える生き証人となります。

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