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倭の五王

倭の五王

 倭の五王は従来説では大和の王「記紀」に記載がある天皇であり、少なくとも倭王武は雄略天皇であるといわれれているがその実態は依然謎に包まれており、歴代天皇の系図に当てはめる作業を試みるもいまだそれを証明できるものは無い。

倭の五王の系図を中国の書簡と松野系図から当てはめてみると次のような関係になる。

4世紀~5世紀の半島 列島の様子

後世の「三国史記」にある百済の話は全くの作り話で、この当時百済は半島に建国しておらず『宋書』『梁書』『周書』『魏書』には「百済はもともと高句麗とともに遼寧省の東部に位置していたが、後に高句麗は遼寧省の東部に、百済は遼寧省の西部に位置するようになった。 百済は晋平郡晋平県によって統治されている。」

事実上の百済の初代王近肖古王が即位すると新羅と同盟を結び371年太子と共に高句麗の平壌に進み高句麗の故国原王を戦死させ372年東晋に朝貢し 6月には鎮東将軍・領楽浪郡太守に封ぜられた。

好太王碑

殘,新羅舊是屬民,由來朝貢,而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。以六年丙申,王躬率水軍討利殘國軍□□。…百殘王困,逼獻出男女生白一千人,細布千匝,歸王自誓,從今以後,永為奴客。…九年己亥,百殘違誓與倭和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。…十年庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,倭滿其中。官兵方至,倭賊退。

訳 百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。ところが、倭が辛卯の年(三九一)以来、海をこえて襲来し、百済や新羅などを破り、臣民とした。そこで好太王は、三九六年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。…百済王は困って好太王に降伏して自ら誓った。「これからのちは永くあなたの奴隷になりましょう」と。…三九九年、百済はさきの誓約をやぶって倭と通じたので、好太王は平壌へ行った。そのとき新羅は使いを送ってきて好太王に告げた。「倭人が国境地帯に満ちあふれ、城を攻めおとし、新羅を倭の民にしてしまいました。私たちは王に従ってその指示をあおぎたいのです」と。…四〇〇年、好太王は歩兵と騎兵あわせて五万の兵を派遣して新羅を救わせた。その軍が男居城から新羅城に行ってみると、倭の兵がその中に満ちていたが、高句麗軍が到着すると、退却した。

「倭城」と呉柱事件

「北平郡を破り、転じて廣都を寇(おか)し、白狼城に入る」とある。「倭城」は北平群にあり白狼城に近く「倭城」はこの影響を受けたと考えられる。

その当時 高句麗は遼東にあり百済は遼西にあった。倭城は燕と遼西に隣接しており、卑弥氏の本貫地である。390年高句麗の百済侵攻に巻き込まれ、卑弥氏も福岡県八女郡広川に渡来したと考えられる。

列島の王権

407年列島の仁徳王権(天(阿毎)氏)は高句麗出兵により壊滅的な打撃を受ける。倭城の讃と珍は仁徳の筑後王権を攻め仁徳王権は難波(大阪)に逃亡する。その結果倭城の讃と珍は仁徳の筑後王権を攻め仁徳王権は河内を便り王権を河内移す。ここに河内 九州に二つの王権が誕生した。

高良大社の物部の書の記録では神功皇后の崩御が389年と推定され、以後仁徳の王権が始まり「唐書」にあるように407年以降に都を筑紫から河内に移したと考えられる。

倭の五王(讃)

倭王讃は412年に広川町に倭国を建国し倭王となる。413年に晋へ朝貢 在位は412年~426年頃である。

  • 1、晋の安帝(396~418年)の時、倭王讃有り。「梁書」倭伝
  • 2、晋の安帝、義熙九年(413年)是の年、高句麗・倭国及び西南の銅頭大師、並びに宝物を献ず。
  • 3、高祖の永初二年(421年)、詔して曰く、「倭讃、万里貢を修む。遠誠宣しく甄(あらわ)すべく、除授を賜う可し」
  • 4、太祖の元嘉二年(452年)讃、又司馬曹達を遣わして貢献し、表を奉り、方物を献ず。讃死して弟の珍立つ。自ら使持節・都監(後略)つまり在位は412年~426年頃である。

倭王讃と称号(宿禰と連)

「先代旧事本記」に記載がある物部胆咋 (いぐい)宿禰この宿禰の称号は仁徳王権の称号である。
宿禰の称号は「先代旧事本記」に「其の宿禰の官は初めてこの時に起これり」とある。
その後「旧事本記」「天孫本記」の称号は九世孫物部多遅麻連公(武諸隈大連の子)孫物部五十琴連公(物部胆咋 (いぐい)宿禰の子)十世物部印葉(いにば)連公(遅麻連公の子)以下略

物部胆咋の時代に物部氏は倭王讃の支配下に入ったこのことにより称号が変わっている。つまり宿禰は仁徳王権の称号 連は倭王の称号であることが判る。

倭王讃の墓


 石人山古墳 八女広川町 全長 130mの前方後円墳で時代は五世紀。倭王讃のは426年に死去している。特徴としてはその当時まで見られなかった石人・石馬である。これは倭王讃が列島に優れた石工技術を取り入れたと考えられる。

倭王讃の石人・石馬は中部九州(肥後・豊後)まで広がりを見せている。

倭隋の墓

江田船山古墳
全長 全長62m、高さ10m
江田船山古墳は追葬が二回行われている。
初葬・・・五世紀後半
副葬品 金銅竜文透彫冠帽 金製心葉形垂飾付耳飾 金銅亀甲文冠帯金具残欠 竜文鉄地金銅張鏡板付盧等
追葬・・・六世紀後半
金銅亀甲文冠帯金具残欠 金製心葉形垂飾付耳飾 横矧板鋲留短甲、横矧板革綴短甲等

江田船山古墳の初葬者は王冠が出土しており王とされているが、倭の五王は大王なので筆頭将軍 倭隋の墓と考えられる。

倭王讃と倭隋

妻入り横口式石棺 石人山古墳の石棺は妻入横口石棺である。石棺の蓋には見事な直弧紋が彫られている。石棺の材質は菊池川下流域のもので、江田船山古墳辺りである。 江田船山古墳の石棺も妻入り横口式石棺でありこの石棺は有明海沿岸に多く分布している。

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