野波神社

末盧国

北山ダム湖に沈む前の「野波(のなみ)の里」は神功皇后生誕の地という伝承がある。そこには、神功皇后を祭神とする野波神社があり、皇后(息長足媛おきながたらしひめ)の両親を祭神とする下ノ宮がある。

参道

鳥居は明神鳥居

神門

随神

野波神社由緒

野波神社
祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥
淀比吽大神(淀姫神)
建立 西暦二六八年(弥生時代初期)

神功皇后が三韓征伐のため肥前より筑前へ 通過の折当地にお立ち寄りになり、守土の大石(現在北山ダムの湖底にある)直系四メートル位)に腰を下ろし、一帯の風光を眺められ「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。
後にこの地に御社を営み、古くから「神埼佐賀七山の宗廟として崇められ 上下の信仰が厚い(七山とは杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山)
~略
別名、下ノ宮が当村宮の口に祭られているが、この神社も野波神社と同時に設営されたものと思われる 祭神は神功皇后のご両親である 息長宿禰命 葛城之高瀬媛命の二神が合祀され 拾年毎の弐年大祭りには 神功皇后のお神輿と稚児行列のお上り お降りの行事が行われ、祭神親子三方の楽しい一夜を設営されています。
又当地には鬼火と云うドンド焼きが一月七日の早朝村内各地で燃やす習慣があるが、野波神社に近い二集落は夕方に燃やす、これは言い伝えによれば祭神 神功皇后がその朝野波の里で産気づかれたので、ボカボカと大きな音の出る鬼火焼きは延ばせ、と早振れが来たので 夕方燃やすこととなったとか

このことが本当であれば仲哀天皇は野波の里お産まれ、誕生日は一月七日となります。
平成十五年十一月十日  原稿 吉田 藤雄  案内版より

多分仲哀天皇は応神か仁徳(応神と仁徳は親子では無い可能性が高い)かの間違いかもしれません、他のからみからみると神功皇后本人のことかもしれませんが一月七日に誕生したそうです。

新暦に直すと二月三日 節分に当たりますね!

① 野波神社
所在地 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは、中谷) 1358-41
祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
由 緒(要約)
西暦268年に創立。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地に寄られたと云う。明治43年村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。
昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年12月13日に遷座式を執行した。昭和28年4月8日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。

境内

拝殿

狛犬は佐賀でよく見るタイプです。


本殿の千木は横削ぎですので女神です
神紋は判りません。

摂社

淡島神社

淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。
和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。
野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。  資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

乙宮神社

野波神社近辺の神社を調べてみると若宮八幡宮(祭神 應神天皇・神功皇后 大雀命・源 義経) 八龍神社(祭神 綿津見神・龍田大神) 廣瀬大明神(祭神 若宇迦及売命・天照大神 豊受大神)そして乙宮神社が在ります。

中宮に当たる位置にあるのが乙宮神社です。

乙宮神社由緒

乙宮社祭神 大雀命・菟道椎郎子 室町時代の嘉吉2年(1442)に阿波国の住人杠日向守が、淡路国の弓絃葉権現を奉供してこの地に来着し、一門の氏神として乙宮権現を祀ったのがこの神社の起源である。杠氏はこの地一帯の領主となり、地名を杠と改めるとともに、野波神社にも祭田五町歩を寄進して祭祀を盛んにした。
 祭神の大雀命と菟道稚郎子は御兄弟で応神天皇の御子である。大雀命は後の仁徳天皇。菟道稚郎子は阿直岐・王仁に典籍(書籍)を学んだ。天皇に深く愛されて皇太子となったが、天皇の死後、兄大雀命と皇位を譲り合い、空位3年にも及んだため、自ら生命を断って皇位を兄に譲った。
杠日向守はどのような考えでこの2皇子を祭神としたのかわかるすべはないが、奉供して来た「ゆずりは」権現といい、神に祭った2皇子の皇位の「ゆずりあい」といい、何れも日向守の姓「ゆずりは」と同音または近い音詞であることに注目したい。そして、兄弟仲よく、兄は親の命に従い、弟は兄を尊敬する、ということは、戦国乱世に生きた日向守にとっては、一家一族和合の美徳と感じられたにちがいない。日向守はこのご兄弟皇子を一族一門の鑑とするため氏神として祀ったののであろう。

出典:三瀬村史p721

下ノ宮

狛犬

拝殿

天井絵

下ノ宮由緒


② 下ノ宮
所在地 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
由 緒(要約)
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に「下宮」となったのであろう。
野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。

結論から言って神功皇后の応神天皇の生誕伝承は対馬・神集島・大分・宇美と数多くありますがそれは「高良玉垂神秘書」に伝わる古文書とはかみ合っていません。野波神社の下ノ宮の祭神が神功皇后の両親であり 中宮位置にある乙宮神社の祭神が神功皇后と藤大臣の実子と考えられる大雀命・菟道椎郎子であり生誕伝承などから神功皇后の生誕地 もしくは神宮皇后の子供の出生地である可能性が高いようです。

資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

①「三瀬村史」による野波神社
社号 野波大明神
祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。
 文中2年(1373)再興。
 長禄2年(1458)再建。
 元亀2年(1571)再々建。
 宝永元年(1704)再々々建。
 天保14年(1843)3月、1575年祭施行。
今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。
室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(1573~1591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(1674)2月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。
近代になって、明治6年10月31日村社に指定され、同43年10月13日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年12月13日に遷座式を執行した。
昭和28年4月8日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。
  「七山宗廟野波大明神」-拝殿入口の額
  「七山宗社」-弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」 三、何れも木製
  「表札」-神社の伝説口碑を記したもの
御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。
昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。
淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。
和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。
野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。
出典:三瀬村史p710

②「三瀬村史」による「下ノ宮」
社号 下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。
下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。
野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。
出典:三瀬村史p712

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