スポンサーリンク

豊(淀)姫

豊玉姫

豊(淀)姫

大和武尊の名前を譲った川上梟帥(取石鹿文)には確認されているだけで二人の兄弟がいたようです。一人は彦王(石鹿文)もう一人は淀(豊)姫であったようです。彦王(石鹿文)については明確な記録はありませんが、淀(豊)姫については「高良玉垂宮神秘書」に記録が残っています。

豊(淀)姫の記載

男月神ノ垂迹底筒男ノ尊 皇后と夫婦となり 嫡男の垂迹表筒男は皇后の御妹 豊姫と夫婦となった。

皇代十七代仁徳天皇の時、神功皇后崩御された、高良明神、豊姫、玄孫大臣 その御子大祝日往子尊 武内大臣 皇宮を共に出、武内大臣は因幡国に立ち残り、炉辺に靴を脱ぎ棄て、御衣を木の枝に掛け山の奥に入給う隠れるとこを知らすなり、残り四人は皇宮よりはるばる行き豊姫 玄孫大臣は肥前国に留まりて豊姫は河上大明神となった。

与興比売神社
高良玉垂宮神秘書 第一条

淀姫神社の祭神は神功皇后の妹の淀姫命で、またの名を豊姫ともいい、朝日村の村社であった。
神社の創建のいわれは、神功皇后の朝鮮出兵の時、妹の淀姫が後をしたって武雄温泉に来られ、丸山の風景をながめ、長旅の疲れを慰められたという。
 皇后の旅立たれた後、淀姫は二十二歳の若さでここ川上の地で亡くなり、御霊を祀るため建てられたと伝えられている。

武雄淀姫神社
武雄淀姫神社 御由緒

年表

  • 出生は糸島の川上梟帥と同じ場所で産宮 父は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)母のは奈留多比売(なるたひめ)である。
  • 兄 川上梟帥 彦王(石鹿文)と共に筑紫から佐賀大和の川上峡に移り住んだが大和武尊により一家は移住
  • その後、藤丞相(阿部保蓮 開化天皇)の乳母を務めた。
  • 高良山にて表筒男(安曇磯良 武内宿禰)の妻となる。
  • 三韓征伐前に武雄の地で没する。
  • 河上大明神として川上峡に祀られる。

わりかし神話上の人物としては出生から没年まで明確ですが、ここで不思議と思われるのが武雄で二十二歳で亡くなったという点と神功皇后の妹という点ですが、神功皇后は年下であったが開化天皇の妻であった為、格上とされそれにより亡くなった年を神功皇后より年下としたと考えられます。

豊(淀)姫の墓

 ふつうなら河上大明神として川上峡に祀られているので与興比売神社がその墓所であると考えられますが、今回11月の調査でその墓と考えられる場所が見つかりました。

具体的な名称はふせますが、この神社の裏手になります。

石碑

 石碑には高良宮宿禰神室加輪神姫高貴古墳嬪七坪四方形博永代爲之家運息斎又爲後世史歴矣とあります。要約すると「高良宮宿禰の妻 加輪神姫古墳七坪四方形の墓であるを伝え長い繁栄と家運息斎を伝えるとあります。」

御神体

この石碑の発見後、古川さんと宮原さんが聞き込みをしたところ、この墓は別の場所から移転されたそうで元は鏡山家に存在したそうです。

鏡山家の記載

表筒男尊 日神垂迹玄孫物部大連は大祝家の始まりである。

大祝隠居の時の名を 三頭院という その所以は三職の頭なので隠居の時までもそういう 隠居したのちは大祝と名乗ってはならない 職の苗字ゆえ 本名は鏡山という。

大祝 エフクテン 四十二丁 これは屋敷に使う領地その外神領多衍か多しと神米は衣福田の総目訳である

高良玉垂宮神秘書より

つまり表筒男 日神垂迹玄孫物部大連が鏡山であり四十二丁の領地の中にこの墓があったことがわかります。四十二丁というと東京ドーム9個分ですが、その中の大祝屋敷にあったそうなのでほぼ現在の位置と同じと考えられます。

大祝屋敷

これは「高良玉垂宮神秘書」が事実を記してあることと神話上の人物が実在したことを証明します。

コメント

タイトルとURLをコピーしました