高祖神社から神輿が下ったと云われる神社は町中にひっそりと建っています。
境内
細石神社から200mほど離れた場所に八竜の森という場所があり、そこが彦火火出見の生誕地と伝わる場所にあった石です。
由緒
細石神社(佐々禮石)
祭神
磐長姫委命
木之花開耶姫命
由緒
伊都国の中心部で、祭神は磐長姫と妹の木之花開耶姫(日向一代ニニギノミコトの妃)の二柱
元禄8年(1695)の「細石神社縁起」では天正15年(1587)豊臣秀吉により、神田没収とある。これ以前については、判明していない。
付近の遺跡
伊都国王墓
南小路遺跡(紀元前一世紀の応募と王妃墓)
鑓遺跡(紀元前一世紀の墳墓) 案内板より
拝殿
本殿の両脇の彫刻は牛と鶴 牛は素戔嗚 鶴は物部氏のトーテムです
木瓜ですが素戔嗚のものとは違う高良大社と同じ木瓜
平原遺跡
高祖神社と細石神社の間には平原弥生古墳があります。昭和四十年前原在住の考古学者原田大六氏を調査し任として発掘調査が行われました。そこには三十六面にのぼる銅鏡で、その中には日本最大の白銅鏡においては、伊勢神宮の八咫鏡と考察sれました。「延喜式」「皇大神宮儀式」に記された「桶代」の寸法二尺(四十六.五センチ)から八咫鏡に近いこと「御鎮座伝記」記載の特徴が「八頭花崎八葉形也」から八咫鏡と同型と結論づけられました。
さらに一号墓の埋葬品に武器が少ないこと、装身具が多いことなどから被葬者を女性であると推定され、鏡・太刀・勾玉という「三種の神器」が埋葬されていることから「天照大神」(神格名・大日曇貴)の墓であると確信されたとあります。この内容は原田大六著 「平原弥生古墳・大日雲貴」として発行されているとあります。
古墳の時代は卑弥呼のいた三世紀のもので、被葬者は鏡を磨く為に水銀の入った瓶を持っていた有ります。また発見時鏡等は全て人為的に破壊されていたそうです。
埋葬者の股間部分は高祖神社を向いており稲刈りの十月中旬には二の鳥居から日を拝むようにされており再生を願う太陽信仰に結び付くものだとしています。
伊都国歴史博物館では埋葬品の一部を展示しており、現物を見ることが可能です。
分析
- この「細石神社」の祭神は「磐長姫 木花開耶姫」である。昔は「高祖神社から神輿が下る(上る?)」神幸があったということから、この「細石神社」は「三代実録」に記載された「元慶元年(877年)、高磯ヒメ神に従五位を授ける」とある「高磯ヒメ神」であると考えられると三雲の氏子は云っている。「佐々禮石の社」(さざれいしのやしろ)三原村にあり。子の神は高祖大明神の御母という。だから木花開耶姫を崇め奉るのだろう。神体は小石なので「さざれ石」というのであろう。多分三雲村の間違い またこの「細石神社」は「三雲南小路遺跡の、日子番の瓊瓊杵尊と木花開耶姫の墓の拝殿」であると考えられる。地元考古学者原田第六は、三雲小路遺跡発掘の時に「1号甕棺墓は武器が多く、2号甕棺墓は玉類が多い。そして、この二つの甕棺は寄り添うように埋葬されている。つまり王と妃の墓である。」とコメントしている。
- 木花開耶姫に比定される高磯ヒメとは筑前怡土 高祖神社「高磯ヒメ神 赤留比命か丹生都比売命か?」筑前怡土 託社神社「託社ヒメ神:赤留比売か丹生都比売命か?」この地は丹生都比売神社の丹生氏128代丹生広良氏の「丹生氏伊都国上陸説」があり、上記の神社の存在、丹生都比売神社が記の国伊都郡に鎮座している事が傍証になる。と言われているそうです。
- 1、まず祭神の木花開耶姫ですが瓊瓊杵尊は「古事記」においては確かに伊都国の日向に舞い降りましたが、その後 大山祇命のいる鹿児島に向かい木花開耶姫を娶り鹿児島で生涯を終えたようです。その墳墓は可愛陵等複数南九州に存在することから妻の木花開耶姫も南九州で生涯を終えたことが想像されます。
- 2、赤留比売ですが天日鉾の新羅時代の妻であり子は市杵島姫命のみで彦火火出見の母では無い上 豊後から浪花に移りそこで神になったと考えられます。
- 3、丹生都比売ですが天照大神の妹 稚日女尊(わかひるめ)として記される神で、もう一人の側近 丹生都比売神社で共に祭られる大食都比売が素戔嗚の娘 大目姫であることからも素戔嗚(天日鉾)の娘であった可能性が高く平原遺跡の主である可能性がある。
- 結論からいうと瓊瓊杵尊と彦火火出見には何の血縁も見いだせず。天日鉾を追った彦火火出見(五十猛)の妻もしくは妻の母である可能性が高いと考えられます。
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