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疫八坂神社

末盧国

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

「魏志倭人伝」末盧國


「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕るを好み、水、深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」

最近の研究では末盧国は宗像であると考える方もおりますが、遣唐使のルートもやはりこの海路で、やはり末盧国の「まつら」とはやはり現在の松浦であり松浦川の流れる最も壱岐寄りの国 佐賀松浦川当たりが有力ではないかと考えます。

末盧国には約四千余戸の住宅がありヒコもヒナモリも存在せず漁業により生活をしていたと記載されています。

遣唐使のルートも秀吉の朝鮮出兵も神集島~壱岐~対馬であり本土からの出発点もこちらであったと考えるのが自然である。

境内

神門

手水舎

由緒

祭神
素戔嗚命・稲田姫命・大己貴命・少彦名命・事代主命
由緒
伝説では神功皇后渡韓の折、軍船多数、当時「鰐の里」と言っていた港に立ち寄られた際、丁度当時玄界灘が大いに荒れて渡航することができず、皇后が榊を立て天神地祇を招き安全を祈願され、その榊を焼かれ灰を振り禊を行われたところ、海も凪いで無事目的を果たされたことから、疫病厄除けなど総ての疫祓いの開運の守りとしてあまねく信仰を集めています。

肥前鳥居と狛犬
慶長二年(1597)につくられた石造美術品としては唐津地方で数少ないものの一つで、市指定重要文化財に指定されており、肥前石工技術の発展を知るうえからも貴重なものです。

拝殿 本殿

彫刻からも多くの情報が得られます。

拝殿の彫刻は鶴 物部氏に多く見られる彫刻です。
神紋は木瓜 須佐之男命の紋です。

不思議なのは波乗り兎 博多の櫛田神社の大幡主の彫刻です。

末社

七福神となっていますがそのようには見えません。

ここのお祭りは、「灰振りまつり」とも呼ばれ、毎年2月11日に、厄年を迎えた男性が、参拝者に灰を振りかけ、かけられた人は無病息災で一年が過ごせるといわれている



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