玉島神社

末盧国

案内版によると松浦の名前の由来は神功皇后が三韓征伐を占った際 発した「めずら」がなまって松浦になったと記されていますが、「魏志倭人伝」にはすでに「末慮国」と記されている国が松浦と同じ国であったなら三世紀にはこの国は「まつうら」と呼ばれていた可能性は否定できません。

垂倫石

『住吉大社神代記』には、神功皇后の新羅征伐前のこととして「北のかた火前国松浦県に到りて、玉嶋里の小河の側に進食す。是に皇后針を勾げて鈎を為り、飯粒を取りて餌にし、裳の糸を抽き[取りて]緡(つりいと)にして、河中の石の上に登りて、鈎を投げて祈ひて日はく「朕(あれ)、西のかたを征ちて、財の国を求めむと欲す。若し事を成すことあらば、河の魚飲鈎へ。」因りて以て竿を挙げて乃ち細鱗魚を獲つ。時に皇后日はく「希見しき物なり。」と。故、時人その処を号けて梅豆邏(めずらの)国と日ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり」と記されている。(「訓解住吉大社神代記」参照)

垂綸石
この石は、垂綸石(御立たしの石とか紫台石)といわれ、古典である記紀(古事記・日本書紀)、万葉集、風土記等にも記されています。
 記紀によれば、神后9年夏4月、火前国松浦県玉島里(ひぜんのくにまつらのあがたたましまのさと)の小河のほとりで神功皇后が、食事をなされた時、この岩の下に群がる鮎をごらんになり、針をまげて釣り針をつくり、飯粒を餌とし、着物の裾の糸を抜いて、釣り糸にし、河中の石の上にあがって、吉凶を占われたところが、糸を投げられると鮎がかかったので、皇后は「これはめずらしい」と仰せられた。そこで梅豆羅国(めずらのくに)といったが、今はなまって松浦(まつら)という。
 その時お立ちになってお釣りになった岩が垂綸石であるとされています。
 又、釣竿として使われた時の竹を挿して根づいた竹むらが今も玉島神社、社域に残っています。
平成二十一年三月
唐津市

山上億良の歌碑:
「たらし姫 神の尊の 魚釣らすと み立たしせりし 石を誰見き」
解説:
神功皇后さまが、魚をお釣りになるとてお立ちになった石を、いったい誰が見たというのか

松浦川 玉島の浦に 若鮎釣る
  妹らを見らむ ひとの羨しさ (大伴旅人)
解説:
天女のような乙女が、松浦川の玉島の浦で、
若鮎を釣っている姿を見ることができるひとは羨ましい。

この垂倫石がある万葉垂倫公園の向かいにある神社が玉島神社です。

玉島神社

一の鳥居には神功皇后宮とあります。

二の鳥居は玉島神社

由緒

玉島神社御由緒

一,祭神及び由緒
神功皇后(息長足姫命)

祭神は人皇拾四代仲哀天皇の御座にして功皇后聖母大明神子安神とも申し奉る古記に依れば皇后三韓御征伐の時松浦縣玉島の里に到りまして小川の中の紫石に降りたち給ひ天地地祗に外征の事を祈り若し事成らば年魚之を飲めと金の素針を河中に投じ給ふに忽ちかかれり皇后希見物と宣ふ故に此の地を「めづら」と云ふ即ち川岸の玉島山に皇后の宮を安置し奉る是當社鎮座の創なり
*「紫石」は万葉垂綸石公園にあります

二,創建年代
人皇二十八代宣下天皇御宇(千四百七十年前)
別縁起に人皇三十代欽明天皇御字二十四年
本殿建立、土井大炊頭源利寶享保二十一歳丙辰(二百七十五年前)

三,祭典日
春季大祭      四月三日
祇園祭       七月十五日
夏越祭(虫キトウ)土用入り三日目
放生会祭(旧暦) 八月十四日
秋季例大祭    十一月二十七日
聖母明神祭    十二月十八日
年越祭
年明祭
  玉島神社社務所
 平成二十三年

境内

手水舎の水口は魚に占いで鮎です。

狛犬

拝殿

拝殿の神紋は右三つ巴

天井絵は龍です

本殿


造りは流れ造 神功皇后宮とあります。

千木は縦削ぎ 鰹木は三本 神紋は右三つ巴

結論から言えば右三つ巴も龍も豊玉彦(八咫烏 八大竜王)のことで男神を祭った神社に神功皇后を被せた神社です。

本当の御神体はこちらの磐座です。
本殿より高い位置にあり拝殿が前にあります。

摂社

祭神は素戔嗚尊

須賀神社

彫刻や神紋 祭かたによって本当の祭神を知ることができます。

系図

豊玉彦は大幡主の息子であり穂高彦 豊玉姫 玉依姫の父であり赤留比売の兄である。日本古代史においては頂点に置かれる人物 詳しくは豊玉彦から検索ください。

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