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莵道稚郎子命

福岡県

莵道稚郎子命

春宮

宇佐八幡宮の応神天皇の皇子達を祀る若宮神社のとは別に春宮と呼ばれる社が存在します。

宇佐八幡宮 春宮

春宮とは東宮つまり皇太子のことで本来ならば大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)に使われるべき尊称のはずですが、莵道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)を除く五柱の神々は、若宮神社に祀られています。

記録による莵道稚郎子命

百済から貢上された(貢上=「貢物を差し上げる」)阿直岐と王仁を師に典籍を学んだといい、父天皇から寵愛された。応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り捨てている。応神天皇40年1月に皇太子となった。

翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだという。

ちはや人 菟道の渡に 渡手に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 苛なけく そこに思ひ 悲しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀

この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという。

「日本書紀」より

莵道稚郎子命の墓・神社

墓は京都宇治市莵道丸山にある宇治墓(うじのはか、)に治定されている。宮内庁上の形式は前方子円墳。遺跡名は「丸山古墳」。

『日本書紀』では「菟道山上」に葬られたと記載されている。

また『続日本記』承和7年(840年)の記事には、郎子は遺命して散骨させたという伝承が見られる。

神社

宇治川沿いに建つ宇治神社は、平安時代創建と伝えられ、古くは離宮八幡宮(桐原日桁宮(きりはらひげたのみや))と称し、祭神は応神天皇の皇子莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)とされている。

九州の莵道稚郎子命を祀る神社

乙子神社

福岡県那珂川市別所井尻
「別所」は、東で山田(やまだ)、北方やや東で安徳(あんとく)という地区とそれぞれ接する場所 「井尻」は江戸期の儒学・本草学者貝原益軒(かいばらえっけん)は、その編纂史書『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』の『拾遺(しゅうい)』において、かつて界隈に『院使寺』という寺があり、これが訛ったことに『井尻』の名の興りがあるとしている。

乙子神社

「乙子」とは「末子」の意味で応神天皇の末子である宇治若郎子命を表すものと考えられます。

仏像

 枝郷井尻村にあり。此村産神ハ山田村の伏見大明神なり。むかしハ院使寺と書しを後に井尻に訛るといふこと本編に見へたり。此社のある所即院使寺址なり。乙子社は乙護法なり。是背振山寺の護法神なり。元亨釈書に見へたり。此神社肥前神崎郡背振の中宮にも、また當國早良郡背振東門寺址にも有。神躰は童子の木像なり。乙子社の北に君命(クンメイ)社とて有。堪誉上人の像を安す。座像長老尺六寸許、傍に観音の立像二躰あり。君命とは堪誉上人をいふ。此僧昔君主の勅命をうけて都に登りしこと宴曲抄に在。是によりて君命と崇むといふ。堂の後の山上に南に向ひて古墳有。壱間四方に石を積上たり。是堪誉の墓なり。巫女一戸有て諸堂を守る。是より五箇山に至りて谷中往々寺址多し。是いにしへ背振山寺の繁昌の時ありし僧坊の跡なり。別所といふも背振山東門寺の別所ありし故の名なり。宴曲抄の内玉林菀(苑)に抑元明の聖代和銅二年とかや、三昧發明の上人堪誉をめさるゝ事ありき。則詔に應して花洛の月に攀上り帝闕の星を仰きて効験威光をかがやかす。時に勅使のいたりし麓寺院使寺と号せらる。忝なくぞおほゆると見へたり。背振の東谷千坊と世にいへるは、即五ヶ山より此辺まての僧坊をいへるなり。…

 ―『筑前国続風土記拾遺』;編:青柳種信ー

乙子神社は、君命社の南に一段高く、急勾配の石段二十四を上ったところにある。乙子神社は脊振山寺を守護する神で、この社のあるところが院使寺の跡であるといわれ、すぐ下を流れている川を「寺の川」という。

 君命社の後の小山の上に、一間四方に石を築き上げた古墳がある。これは湛誉上人の墓であるといわれている。…

 ―那珂川町教育委員会編『郷土誌那珂川』
伝湛誉上人の墓(上宮)
松の彫刻 開化天皇の紋です。
波乗り兎 大幡主の一族です。
御神体

なおこの上宮は女人禁制だそうです。

更に近くには大山祇を祀る神社があります。

宇治神社

扁額

若一皇子宮とあります。

拝殿
本殿

神社の神紋は菊紋(十六葉菊) 左随神は菊紋(十六葉菊) 右随神は下がり藤です。

由緒

寛文の頃當村古屋敷より移転舊國主黒田長政慶長十二年十一月二十一日造營、明治五年十一月三日村社に定めらる。

福岡県神社誌

慶長十二年丁末(ひのとひつじ)の冬黒田長政此邊に遊獵せられし時、雷雨頻なりしかば此社に避けて祈念せられしに天忽ち晴れたり。因りて社を改めて造るべしとて材木を與へらる。

糸島誌

摂社

八坂社(進雄命)

左は不明 右は五穀神と不明

分析

本来「郎子」とは王とも表記されており、皇位継承者に付される「命」ではなく「王」に近い用法と考えられている。

『播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載があり、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚郎子を指すと見られている。

更に一方では乙子(末子)別神社では若一皇子と記されている。

何故このような食い違いが起きるかというと「記紀」においては応神天皇の末子と記されているが、百嶋神社学では、応神 仁徳 莵道稚郎子は開化天皇の皇子で異母兄弟で宇治若郎子が長子であると云われている。

その関係を地図に落とすと次のようになる。

那珂川の神社

元々の奴国は糸島から那珂川の西であり、その居城は山神社付近(猫城)が三韓征伐後 妃になった神功皇后の造った烈田の溝(さくたのうなで)より東が神功皇后の息子 仁徳天皇に与えられたと仮定すると

西を大山祇神社となっている大山守と莵道稚郎子命で争い、那珂川の東西を莵道稚郎子と大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)で分けたと考えられる。

その後二人がどのようになったかは想像の域になります。

ただもしかしたら宇佐八幡宮の宇佐(兎)は莵道稚郎子と関係が深いかもしれません。

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