八股遠呂智(ヤマタノオロチ)

埴安姫 草野姫

天岩戸の後(中略)樋の川の奥へ入り給う。その川の川上より箸一対流れ下る、人が在ると思し召し、川を伝いに入り給う。片原に在家見えたり。立ち寄りてご覧ずるに、夫婦と姫一人みえたり。泣き悲しみ限りなし。スサノヲ尊、尋ね給う。いかなる人にてあるか?答えていわく。この浦は三年に一度、この川に「いけにえ」あり。今年はわが姫に当たりて、男の肌に触れない女を「いけにえ」に供えるなり。スサノヲ尊聞こし召す。ここに至って、そういうことであるならば、悪龍を退治すべしと仰せおれば、翁、答えて申す。御意にそうすべし。喜びいわく、翁夫婦の名を足名椎(あしなつち) 手名椎という。姫の名を稲田姫と云うなり。

高良玉垂宮神秘書第一条

皆さんご存じの八股之大蛇の一説ですが、八股之大蛇の舞台となると出雲というのが定番で実際何処で起きたことなのかよく判らないというのが正直な意見です。

現在判ったことからご説明しますと 櫛稲田姫の父 足名椎命 母 手名椎についてですが熊本県山鹿市に二人を祭る神社が存在します。

高橋八幡宮

拝殿

一応名前は八幡宮 祭神 誉田別命となっていますが、神紋は八幡宮の三つ巴ではなく円天角地に十字剣と金山彦の神紋です。

本殿彫刻

更に本殿の彫刻ですが、波乗り兎は大幡主 馬は大山祇神のようです。
するとここは金山彦 大山祇神 大幡主の妹 埴安姫(草野姫)を祭っていた可能性が高くなります。

高橋金神社

由緒


やはり金山彦と埴安姫を祭る摂社がありました。
祭神 金山彦命=足名椎命=面足尊 おもだるのみこと=国狭槌尊=金鑚大神=迦具土神
   埴安姫命=手名椎命=惶根尊 かしこねのみことになります。

そしてこの神社のある地域の地名は稲田といい 二人の子 櫛稲田姫の生誕の地と伝わっています。

同じ山鹿にヤマタノオロチのモデルになったと考えられる神社があるので、そちらに行ってみましょう。

八島八柱神社

由緒

八嶋八柱神社(飛地境内地)
七月二十一日
人皇十二代景行天皇鎮西筑紫日向朝敵熊襲退治の時肥国玉杵ぼ里より山鹿にて泊りし時(当時平野は湖であった)の南の湖中に八つの光が昼夜をわかたず見えにし、大臣を遣わし見聞き給うに体1ツにして頭八ツの亀にて『寒・言・神・尊・利・根・蛇・見』と鳴告しにより天皇八嶋に 高皇産霊日神 足皇産霊神 神皇霊日神 御食津神 玉皇霊日神 事代主 生白霊日神 大宮売神を祈り熊襲退治を祈願し給う 以下略

飛地境内とありますが時代でいうとこちらの方が神功皇后よりはるかに古いことになります。

剣花花菱 十字剣がありますので金山彦だと思います。
由緒からすると製鉄所で天叢雲剣(草薙剣)はここで打たれたようです。

元々大山祇と金山彦の争いをヤマタノオロチにたとえ仲裁したのが素戔嗚尊と云われており、お詫びとして天照大神に贈られたのが天叢雲剣(草薙剣)と伝わります。

ではその舞台となった地を御案内します。

スサノヲ尊その意を得て、まず、「ヤハシリ酒」という毒酒を作りて、舟一艘に積み、上の社に段を構え、姫の形に人形を作り置きたまう。風水龍王、人形の形が酒に映りて、酒の下に人があると思いて、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔い臥したり。スサノヲ尊、これをご覧じてトツカの剣を抜きて、散々に切りたまう。八の尾をことごとく切り給う。その中の一つに切れない尾があり、ご覧ずるに、氷のごとくになる剣あり。取りてご覧ずるに、後の天照大神の三種のうちの宝剣なり。この剣は近江国の伊吹山にて失いたまう。(中略)この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくに在るにより、叢雲の剣と申すなり。

高良玉垂宮神秘書第1条

神崎櫛田神社

境内

狛犬
肥前鳥居
琴の楠

景行天皇は御子の日本武命(ヤマトタケルノミコト)を偲び、各地を巡行された。櫛田宮に琴を埋め、化して楠となる。よって琴の楠と称する。この古木の周囲を呼吸を止めて7回半まわれば琴の音色が聞こえるという。

弁財天 厳島神社
神門

由緒

御由緒沿革
社伝によれば、第12代景行天皇が当地方を巡行された折、当時この地に不幸が続いて人民は苦しんでいたが、神を祭りなごめたら、その後は災厄もなくなった。神の幸をうける地というところから「神幸(かむさき)の里」と名付けられ、今は「神埼」と書いている。
以下略・・・

手水舎

拝殿

神紋は日本の劔 違い劔でいいのでしょうか?金山彦の十字剣にも見えます。

摂社

祇園社 祭神 素戔嗚尊
稲荷神社 倉稲魂命

史跡

神崎発祥の地 櫛山
八岐大蛇の酒樽

神社裏一帯を櫛山と称して、古代神祭の旧跡と伝える。かたわらに石造の酒甕と伝えられるものもあり、祭神がヤマタノオロチの災厄をのがれ給うた神話の証として、生児のヒハレ(初宮)詣りの際、その生毛を納めて生育を祈る風習がある。
 
  1年おきの春祭り(みゆき大祭)は、800人近い大行列で賑わうが、その先払いの尾崎太神楽(佐賀県重民無文指定)を保持する尾崎地区周辺には大蛇にちなむ地名伝説がある。

 大昔大蛇が住民を苦しめた。鼻は花手に尾は尾崎までおよぶ長さ六丁の大蛇。人々は野寄に集まりて協議して、柏原から柏の木を伐ってきて伏部からふすべ(クスベ)た。大蛇は苦しみ蛇貫土居をのがれ、蛇取で退治された。今も蛇取に蛇塚がある。

 なお尾崎太神楽の獅子は他所の獅子舞とは異なり大蛇を表現したものであり、蛇は櫛田神の使い(眷属)で、その伝説は霊験記(室町時代)にまとめられている。

(櫛田宮HPより)

解説

祭神とは櫛稲田姫のことでヤマタノオロチの災厄をのがれ給うた神話の証が石造の酒甕である。また「大昔大蛇が住民を苦しめた。」とあります。

元々この神社の祭神は大正時代までは、素戔嗚尊 櫛稲田姫 手名椎命足名椎命であったのですが、日本武尊に変わったそうです。

更に櫛稲田神社は神崎の白折鳥神社と高志神社の三社で櫛田神社といったそうです。白折鳥神社は日本武尊の神社ですので高志神社をご紹介します。

白折鳥神社

高志神社

「記紀」では八股遠呂智は高志から来たと記されています。ではその高志とは何処かというと

一の鳥居
神橋
拝殿

神紋は櫛田神社の違い剱

由緒

高志神社 祭神 須佐之男命 この社と櫛田神社 白折鳥神社(旧仁比山村朝日)とは三所一体の神社で、永仁6年(1298)の文書にすでに記載のある古社です。
 「櫛田宮略記」には「平安時代。今の神埼市から三養基郡みやき町あたりまでは皇室領の三千町歩もある荘園で「神埼御荘」と尊称されていた。その荘園の総鎮守が櫛田宮であり、南北各一里の地に鎮座する高志神社 白折鳥神社とは三所一体の神社で「三宮一徳、三所明神」と称した。」

高志遺跡

ここは古代弥生時代の遺跡で狭い範囲ながらムラの形態を持ち 祭祀遺溝 井戸跡 墓地 貝塚 甕棺 また墓地より検出された戦士と思われる甕棺墓から発見された武器類の出土は、当時の闘争・呪礼など社会事情について今後の研究に好資料を提供するもので 武器 銅剣などは我が国の初期青銅器文化における青銅器の使用形態や生産・分布状況の判明及び大陸との交渉などの研究にも重要な遺跡となるとあります。

倉岡神社

更に櫛田神社の近くに大蛇の伝承が伝わる場所が存在します。

拝殿

天井絵
拝殿

本殿

須佐之男命 櫛稲田姫

本殿には蛇と須佐之男命 櫛稲田姫が祀られています。

由緒

倉岡神社
祭神 素戔嗚尊
由緒
景行天皇が西国平定の際この地に登り、倉庫を他の地に置かれた。その地から五六町西に大蛇が出て往来の人を害した。天皇がこれを退治し、その威風にみな降参し、倉庫を置いた場所に素戔嗚尊を祭り倉岡社と呼んだ。

『脊振村史より』

摂社

分析

背振八天宮 由緒書

近くには金山彦(手名椎命 足名椎命)を祭る八天神社も存在し 高志神社 櫛田神社 倉岡神社に伝わる景行天皇の話は、おそらく秦氏の話であるとかんがえられます。するとその首領とは須佐之男命のことであり高志の八股遠呂智を討伐し櫛稲田姫を得た話がここであろうことは石の酒樽からも明らかである。

高志宮が大山祇神の一族の村で銅剣を使用する一族であったと考えると全ての条件が揃います。

結果として素戔嗚は櫛稲田姫を妻に迎えますが、埴安姫は取り上げられたようです。事件の発端となった山鹿にも字は違いますが合志(こし)は存在しており移動前の高志と考えられるかもしれません。

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