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的原神社

福岡県

大己貴命は英彦山を天忍穂耳命に明け渡し宗像の許斐山に移ったと英彦山の縁起にありました。


その伝承を証明するように許斐山の登山口にその旧跡はあります。

的原神社

許斐山
登山口
扁額

参道

狛犬
手水鉢

拝殿 本殿

扁額
虹梁

虹梁には宗像大社の神紋楢紋

拝殿

外観には彫刻がほとんど無く本殿の千木は外削ぎです。

由緒

村 社  的原神社  宗像郡神興村大字八並字山中
祭 神  大己貴命、味鉏高彦根命、下照姫命
由 緒  当社は宗像七十五社の一也旧記に大己貴命、更娶田心姫命、湍津姫命為妃鎮座此山嶺于時伊弉冊命、速玉男事解男三神為三鷹自東飛来止此峯三鷹変作石像頭身足翅皆備如真見在大己貴命譲此峰於三神自率田心姫湍津姫二妃降居山腹爾後三女神移宗像宮大己貴命遷許斐山とあり当社を言ふなるべし明治五年十一月三日村社に定めらる同十年丑五月宗像神社の摂社となる。
例祭日 九月十一日
主なる建造物    本殿、渡殿、拝殿、社務所
主なる宝物      御神鏡、猪子、三種の神器、高取焼御瓶子
境内坪数       七百八十七坪
氏子区域及戸数  大字八並部落一円、六十五戸
境内神社       貴布禰神社、天満神社、厳島神社、須賀神社

福岡県神社誌 上巻

要約すると当社は宗像七十五社の一也旧記にこの山の峰に大己貴 田心姫命、湍津姫命に鎮座している時 伊弉冊命 速玉男事 解男三神の三神が鷹となって飛来した。大己貴は田心姫命、湍津姫命二女神を自ら率いて移った宗像許斐山とはここのことである。明治五年十一月三日村社に定めらる同十年丑五月宗像神社の摂社となる。

当社は貞享二年三月八並村より勧請す宗像神社古縁起に八並村的原大明神は許斐権現の従神にして文徳天皇御宇天安元年許斐権現と共に熊野より勧請し奉るよし見えたり古事記に大国主命胸形の奥津宮に坐す多紀理毘売命を娶まして生ませ〼御子味鉏高彦根命次に妹下照姫命とあり宜しく高大なる御神徳を欽仰し朝夕崇敬の誠を致すべきなり
昭和九年九月吉日
的原神社社掌 中村保

筑前続風土記拾遺

味鉏高彦根命は事代主の別名ですから ここは下照姫命の生誕地で、母は田心姫命 父は大己貴であると考えられます。

摂社

大己貴

大己貴

天満宮 貴船宮
厳島社 須賀社
市杵島姫命

この二人は親子であり 宗像に降臨した市杵島姫命は摂社に祀られています。

伝承通りならここが宗像の大国主の館跡で次代の味鉏高彦根命、下照姫命の生誕地と考えていいという結論になります。

宗像には大国主所縁の神社がもう一か所あるのでその神社もご紹介します。

その場所は東郷平八郎がバルチック艦隊を破ったことを記念した東郷神社のある山の中腹に建っています。

盾崎神社

由緒

御祭神
大己貴神  少彦名神  綿津見神 
由緒
祭神は、大己貴神・綿津見神・少彦名神、相殿に飛龍権現(神功皇后のこと)
楯崎神社縁記
それ当社は宗像宮に摂する所の七十五社の其の一にして、楯崎神社は以下詳かに説く古宮なり。祭る所の神は、大己貴命、小彦名命なり。又、飛龍権現を以て相殿と為し三座となす。
相伝えて云う、荒洪草〼の世、草木、言い語りの時、夷の類凶暴なる鬼神、吾が北海の浜に来寇し、人民を殺略す。時に大己貴命及び妃宗像姫大神自ら神軍を率い稜威を振い、楯を立て、鼓を鳴らして夷賊を防御し、遂に誅滅し類、無きなり。
楯崎及び加羅船等の名、蓋し此れより起る。按ずるに大己貴命は素戔嗚尊七世の孫天之冬衣神子、母刺国若比売神、此の大神、亦の名を大国主神、亦の名を葦原醜男神、亦の名を八千戈神、亦の名を顕国玉神と謂い、併せて五名の若夫あり。大三輪社に祭る。大物主命は大倭神社に祭り、之を称して大国売神と謂う。故に此の大国主神は、千早振神等を追撥し而して始めて国を作る。其の子凡そ一百八十一神あり。後に天の下、皇御孫尊を避け奉り、日隅宮に永隠す。即ち出雲国杵築大神なり。
少彦名命は神皇産霊尊の子なり。日本紀に按じて曰く、大己貴命の国を平ぐるや行きて出雲五十狭の小汀に到る。而して朝、まさに飲食せんとす。是の時、海上忽、人声の驚くありて、之を求む。すべて所見無き頃、時に一箇の小男あり。白斂皮を以て舟と為し、鷦鷯の羽を以て衣と為し、潮水に隋って浮き、大己貴命に到る。即ち掌中に取り置き、而して之を玩ぶ。則ち跳びつき噛む。其の頰の怪、其の物の色なり。遣使天神に白す。時に高皇産霊尊、之にこたえて曰く、吾が所に産児凡そ一千五百座あり。其の中の一児、最悪にして教養に順わず、指間より漏るる堕者は必ず彼なり。爰に於いて之を養うべし。此れ即ち少彦名命、是れなり。又、云う、大己貴命、少彦名命とともに勠力一心、天下を経営し、またあきらかに、蒼生及び畜産を見んがため。其の療病の方法を定め、又、鳥獣昆虫の災異の壌を為す。即ちその禁厭の法を定め、此れを以て百姓、今に至り咸、恩頼を蒙る。嘗、大己貴命、少彦名命に謂りて曰く、吾等造る所の国、豈に善成と謂や。少彦名命、対えて曰く、或は成す所あらんか、或は成さざるにあらんか。其の後、少彦名命、行きて熊野の御碕に至り、遂に常世郷に適す。今、天下諸国に温泉地あり。是の二神を祭り奉るは、この縁なり。
宗像三前大神は、天照大神と素戔鳴尊、誓って久しき後に生座の御子なり。即ち〼して曰く、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命は沖津宮、中津宮、辺津宮の三所に厳重に鎮座し、奇瑞、古今不変、国家鎮護の大神なり。旧事紀に案じて曰く、素戔嗚尊の児、大己貴神、先に宗像奥津宮に座す田心姫を娶りて、一男一女児、味鉏高彦根神妹、下照姫命を生む。次に辺津宮に坐す高津姫命を娶りて一男一女児、味歯八重事代主神妹、高照光姫大神命を生む。味歯八重事代主神は化して八尋の熊鰐と為り、三島溝杭女を通じて、玉依姫に生き一男一女児を生む。天日方奇日方命なり。此の命、橿原朝の御世勅して、食国大夫となりて供奉。六世の孫阿田賀田須命は、宗像朝臣等の遠き祖なり。宗像社記に曰く、当神、異賊に対し、最初、御合戦地の〼、御楯を築き始められし処を楯崎と号す。其の御楯、石と成りて今にこれあり。軍に御勝ちあり。勝鼓を打ちたまえる処を鼓島と号す。其の鼓、石に成りて今にあり。それ神山の峻嶺上、草木蓊蔚楯板、石と化し、今猶其の石あり。面の径二尺五寸、高さ五尺恰も削成せるが如く、東方に向きて立つ。三方石壁を築き、之を囲続す。土人之を敬畏し能く登歩する者あらんや。社の後に一岩窟の口あり。方二尺五寸、深さ一丈二尺、乃ち神霊の窟宅とする所なり。西は海岸に面して巉巌千尺、ここに萬里の冥遼に絶するに臨み、心目の寥朗を恣し、それ岸下の礒悉く龍蟠り、虎蹲り、怪異萬状、若し夫れ且夕、潮水、懸崖に〼がば、奔〼絶壁を撃ち、怒りて〼噴し、神を驚かし、魂を焇し、人を騒がす所、永吟の雅人、愛賞する所、楯石崎は即ち此れなり。
 夫木集 西行法師
 さかおろす楯石崎の白浪は あらしきほにもかかりけるかな
古老相伝えて曰く、往昔、息長足姫尊、将として西征の時、斯の山に登り、而して神の冥助を請わんことを祈り、御船、これに泊する処を京泊と曰う。社北、御手を洗いし処を御手水の曝布と曰う。其の側に一大巌あり。形状艨艦の如し、所謂加羅船なり。又、三嵓瀬あり、その中間は之を湯壺と曰う。温泉ありて湧出す。今廃し其の海中に多藝理瀬あり、潮汐將に盁涸の時、猶温井沸湯の勢を見る。因って之を社北の礒浜と名づけ、之を五色浜と曰う。細石、悉く五色鮮明なり。又、楢葉浜に神紋石あり。〼々、楢葉の文あり、隠れし名は、浜に起因す。鎮子と為すべし。この岸の西二町許り一岩嶋あり、形状は鼓に類し、草木なし、所謂、鼓島は凡そ、斯の山海の竒勝、言に尽すべからず、皆神明の霊蹤なり。
皇統彌照、天皇桓武天皇の御世、釋、最澄師、求法の為に將に唐国に赴かんとし当社に詣で宿願を達せんこと祈り、自ら薬師彌陀観音像を彫剋し、以て之を安置し号して楯崎寺と曰う。今俗に楯崎薬師と称する所は即ち此の新宮なり。誤って古宮を称して薬師となし、神山を称して薬師山と曰う。曽って大神の本跡を知る者なし。〼に、宗像神社の盛んなるや、末社、修造用途は葦屋新宮浜の漂涛物を充てらる。其後、勅を以て、同郡曲村田地、四拾町修造料と為す。当社亦、これを与う。又、〼田、貮町を寄せられ、今、社東の田字、御田及び御園と称するは古の遺名なり。又、毎年、正月七日、九月廿九日、宗像末社の神座を本社に於いて設け、神饌一百八膳を献じ、又、三月八日より同十五日に至り修法ありて、之を為す。恒例の神事宗像大宮司家、世掌礼典甚だ厳かなりと云う。天正十五年豊臣関白、九国、征伐の時、悉く神田を没収す。これより以後、神殿、傾覆し、神人、緇素、四方に散去し空しく神体佛像を岩窟中に遷し奉りて、祀らず。年ありここに於いて、元禄年中に至り、村民等、旧祠の廃絶を歎き、再造の志を企て、僅かに、一宇の祠を造立し、神佛を同檀に祀る。時に、本山派修験仙光院某なる者あり。衆力を募り而して春秋二祀を再興し、国家の為、永く擁護の神力を懇祈し、黎〼の為恢く発願し、快楽の誓いを弘め、今に一百有余年、祭典、欠さず幣帛、増加して惟れを伏す。大神園を造るの勧めあり。則ち、天下蒼生孰く其の恩光を戴かず。嗚呼、神の徳上下を徹し遐邇を隔てず、爰に感じ、爰に応じて鎮まる。国家、群生を護るや、大なり。誰か神風の余化を仰がざらんや。案内版より

案内版より

大楯崎神社縁起(文化14年)によれば、異賊が来たので、大己貴神と宗像姫大神が神軍を率いて、神霊の威光を振るい楯を立て鼓を鳴らして外敵を防いだ。楯崎、唐船、御手洗瀑布、五色浜、楢の葉浜の名はこれより起こったと云う

宗像社記によれば、一説には神功皇后が三韓より帰られ船が着いた所を京泊といい、楯を蔵め置かれた地を楯崎山と云う。

楯崎山三所大権現略記(享保15年)によれば 桓武天皇(781~807)の御代に、最澄(伝教大師)が薬師・彌陀・観音の三仏を木に刻み三所大権現の御本尊とし、講堂を建てて「楯崎寺」とし、宗像大宮司清氏から氏貞79代に至るまで祭り事が行われた。2町歩の神田も与えられたが、天正15年豊臣関白が来た時、神田を没収され、以後寺は衰退の一途をたどった。

元禄年間(1688~1703)に寺の廃絶を嘆き、一祠を建て再び祭祀を行うようになり「楯崎権現社」として、明治5年村社になるまで続いた。
昭和28年6月の豪雨で、薬師神社のすぐ手前の平地にあった神社が傾いたので、現在地に再建した。

現在、祭りは元旦の歳旦祭と、4月15・16日のお薬師様をおこなう。
御利益は、神功皇后が三韓から帰られた時、平和を祈願するため楯と弦を切った弓を納められたことから、幼児のヒキツケ病除けの神様として昔から信仰が篤い。今でも弦のない弓を持ってお参りする。

津屋崎郷土史会のホームページ 渡 探訪ー2より

拝殿 

神紋は稲のようです。

実はここは元々の社殿の場所ではなく、近くに磐座があるのでそちらに向かいましょう。

磐座

古代大己貴神と宗像姫大神が神軍を率いて、神霊の威光を振るい楯を立て鼓を鳴らして外敵を防いだことにより楯崎神社と云われるようになった。

左に行くと由緒書きの桓武天皇の項にあった薬師神社だそうです。

由緒書きでは元々ここに楯崎宮があったとありました。

不動院

古代より鎮座 奥の院不動明王
蒙珂の為,神社崩壊し,ご神体を海より発見,只々神の尊さを思い此地に移転祭るものである。
平成十八年十月吉日
※上碑文

薬師神社は磐座ですね!

我々関東人にとって東郷平八郎元帥を祀る神社といえば新宿花園の東郷神社と横須賀の戦艦三笠が頭に浮かびますが、バルチック艦隊を破った日本海に向けて宗像にも東郷神社があります。

今日も日本海は大己貴と東郷元帥によって護られています。

英彦山を追われた大己貴命と田心姫と市杵島姫命は宗像の許斐山に移り住みます。そこで二人の間に下照姫が産まれました。そこにも外敵が現れますが大己貴命達はその外敵を退けこの地を護ったようです。

分析

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