高祖山から日向峠を越えた場所、日本で最初に三種の神器が発見された吉武遺跡の近くに飯盛山という山がそびえています。この山は山そのものが御神体でそこには天太玉が治めたと伝わる飯盛神社が存在します。
参道
手水舎
拝殿
虹梁には小鬼
神紋は高祖神社や高良大社と同じ四木瓜
ここの拝殿は脇に左右にくぐり戸があり西王子 東王子と分かれています。
太陽の上る位置が天照 沈む場所がつ月読です。
本殿
本殿の左右の彫刻は亀と狼でしょうか?梁には龍
鰹木は偶数 千木は横削ぎですから通常女神です。
由緒
飯盛宮
むすびの神
相殿 寶滿宮 西王子 月読大神 主神 伊邪冊大神 東王子 天照皇大神 相殿 八幡宮
天孫降臨のみぎり天之太玉命この地を定めて伊邪冊大神外他二神を祀り國主開発を祈らせ給ふ神功皇后三韓を平伏凱旋當宮の伊邪冊大神と相對し若杉山に伊弉諾大神を齋き給ふ
文徳天皇の御霊夢に依り清和天皇の貞観元年御社伝を建立せられ勅使和気清友下向祭事を行はせ給ふ天分二十年小田部民部入道奉行中牟田壱岐守王子社を建立す今の本社神殿は圀主黒田忠之公慶安三年の建立にして郡宗廟として祭事を行はせられ国主度々社参せらる尚飯山は古来全山神域として敬仰し寛文十二年三ヶ村庄屋八万六千を買取り寄進せし事あり
當宮は昔字神料田多く有之大宮司社家社僧数多はへりて神宮寺末寺七ヵ所あり
朝廷を始め武家濃山漁村民の結びの神として信仰厚く由緒深き御社なり
以下略 案内版より
この神社には行事が多く二月の粥占い 十月の流鏑馬などが多く知られています。
石造狛犬(県指定文化財) 飯森山文書(県指定文化財)などがあります。
貞観の古文書(福岡市指定文化財 飯盛神社文書)
銘:貞観元年己卯十一月十二日在原行平・在原業平
「九州筑前国早良郡崇廟飯盛権現本地神宮寺本尊釈迦也
貞観元年己卯七月三日御託宣の次第有り。文徳天皇天安二年戊寅五月五日寅時、
天皇夢想御覧になり諸郷評定有る所、瑞想現れ種々の霊異あり
五尺計りの明鏡紫宸殿に光り輝きて、雷電稲光一丈余の獅子吼え叫ぶ・・・・・・云々
即ちこれ吾が宮居の衆生の守り、国土の守りと彼の地を訪ねるに筑前の国は早良の郡
畏くも、天祖伊弉冉尊を齋祀る飯盛山に鎮座し給う飯盛権現云々と・・・・」
神宮寺
神宮寺とは飛鳥時代仏教が伝来し平安時代に神仏習合に基づき神社に付属して建てられた寺をいいます。
木造文殊菩薩騎獅像
この地は、飯森神社の神宮寺である(13世紀創建)の跡地である。奈良の西大寺の末寺であり、この地方における真言密教の中心寺院として栄えた。
本尊の文殊菩薩騎獅像は、胎内の墨書から元弘3年(1333)の制作であることがわかる。
この像は、全体の高さが215.27センチメートルにも及ぶ大きなもので、木質は桧からなり寄木造りである。
体部を少し後方に引き、右の前・俊足の歩を少し進め、何者かに対峙した時の緊張した姿勢を示す様子と、その上に座す文殊菩薩は右手に剣を持ち、伏目がちに獅子の行方を見つめている。
後世に何度か修理されて現在に至っているが、その彫法は鎌倉時代の彫刻の様式を色濃く残している。昭和53年(1978)、市の文化財に指定された。
堂前には、文殊菩薩を表す梵字を刻んだ貞和5年(1439)の板碑(指定文化財)が建っている。本尊に備えられたものだろうか。
1996年 福岡教育委員会 案内版より
案内版にあった梵字石碑
文殊堂内の文殊菩薩像
神宮寺内風景
西之宮
上宮から中宮の途中に西之宮跡地という場所があります。
西之宮(松尾社)跡地
飯盛神社古文書(一二六五項)文永の文書に西宮修理科田合せ五町とあり東代左官なりし頃の社跡であります。
西とは、現在の飯盛神社の西方に在る由にて、筑前国続風土紀に「松尾社跡本社の西竹林の中にあり。昔は池中の中島なりしと」
今にこの地を西の山と謂い、「元弘建武の乱に太宰少弐の旗下の郡士等此の山上に城を構えて度々戦い争いひし時、御社も灰燼に帰し、辛うじて神体宝物の難は逃れたり」と、この松尾社跡に神体を治めし石函の蓋今も飯盛神社本殿内に納め、静かなる時節の変換を守護致して居ります。
松尾ノ神は、京都嵐山に座す神にて文武天皇の勅命にて勧請、御所の守護として火雷神を祀ります。当飯盛神社の創建も清和天皇の勅願(八五九)に困って建立された事を察すると諾成る事と存じます。
茲に長き歳月の時を経て、飯盛山神道霊社の建立に合わせ、再び祭祀し得ることは、神のご加護と祖先の導きによるものと深く感謝するところであります。
一、祭神 大山咋(おおやまくいのかみ)
一、鎮座 飯森山上・中。下宮なりし貞観の頃かと
一、大歳神の御子にて、万物生成、幸運守護の神
一、祭日 五月 十一月の参度 最初の卯の日
平成二十九年丁酉の歳初春吉日鎮護
飯盛神社宮司 牛尾秀司
飯盛神社氏子総代会 案内版より
大山咋がここに祀られているのは当然で玉依姫とは豊玉姫の妹 豊玉彦の娘 豊玉彦の別名は八大竜王 八咫烏 三島溝咋であるとご説明しましたが、その娘玉依姫なら鴨玉依姫となり鸕鶿草葺不合尊の妻になった後、大山咋の妻になり上賀茂神社の祭神 賀茂別雷大神の母に当たる人物だからなのです。
系図に描くとこのような関係になります。
安曇磯良が高良玉垂命ですので義理の兄弟の関係になりますね。
中宮
山の中腹まで行くとアルミの鳥居の中宮が見えてきます。
中宮の狛犬は飯盛神社の文化財の狛犬を模して造られたものです。
手水舎
中宮由緒書
飯盛神社中宮社
旧飯盛三所権現中宮社
御祭神 五十猛尊(有功神)
御神徳 森林守護の神(福徳円満・不老長寿・病魔退散)
創建 貞観元年巳卯七月三日御神託
再建 平成十四年七月二十八日
御神殿 神明造り
例祭日 水無月の大祓(六月三十日夕方)
下元の節会(十月三十日夕方)
標高 一二六,九m
由緒
抑も五十猛は伊邪冊尊の御孫様にて素戔嗚尊の御子神に当たられます。
古へ神代の昔 天津神々の天孫降臨の砌 木種を持ち来給う父大神に率いられ 唐国に渡り遍く巡遊し到る所此を播き植え給いしが更に我が国に帰り筑紫より全国に亘りて植え廣め給うこの故に此の神を有功の神とも申し上げます。又の名を大屋比古神とも申し武勇の猛く坐す由の名にて有り給えられます。
清和天皇の勅願を帯びて定まれし御社なりしも文和二年九月十九日から戦禍により灰燼に帰してより六百五十年先人達の中宮再建の思いを此地頃に実現申し上げた次第であります。鳥居は明神鳥居としてアルミ合金製では日本一の偉容を誇っています。
豊かな自然と森林環境を大切に心を養い福岡市の景観を楽しみ故郷飯盛山の名にし負う霊峰に相応しい山で在るようにと御祈願申し上げます。
上宮
上宮に関しては特に跡とあるのみです。
分析
当初に説明がありました福岡の飯盛山を女山といい伊邪冊を祭り 若杉山を男山といい伊邪那岐を祭ったとありますがこれは後付けの話で、この山は五十猛と玉依姫を祭る山です。ここの神紋は高祖神社の神紋と同じで高祖神社の彦火々出見の別名が五十猛であることを暗に示しています。つまり彦火々出見=五十猛=饒速日という公式になります。対馬で豊玉姫を娶り その後対馬で国魂の須佐之男の娘婿になり馬見山で饒速日命と名乗ったということになります。
若杉山の伊邪那岐も後付けで本当の祭神は玉依姫や彦火々出見に関係が深い人物が祭られていますが、若杉山をご紹介する時にお教えいたします。
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