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磐井

福岡県

磐井の記載

日本書紀

『日本書紀』継体天皇21年(527年?)6月3日条によると、近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅・喙己呑(とくことん)を再興して任那を合併しようとした。これに対して、筑紫君磐井が反逆を謀って実行する時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を勧められた。そこで磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致した。そしてついに毛野軍と戦いになり、その渡航を遮ったという。

古事記

『古事記』では継体天皇段において、継体天皇段において、竺紫君石井(磐井に同じ)が天皇の命に従わず無礼が多いため、物部荒甲大連(物部麁鹿火)・大伴金村連の2人が遣わされて石井を殺した、と事件について簡潔に触れている。

岩戸山古墳 磐井の像

筑紫風土記逸文(釈日本紀十三の引用)

筑後の国の風土記にいう、-上妻の県。
県の南方二里に筑紫君磐井の墳墓がある。
高さは七丈、周囲は六丈である。
墓の区域は南と北とはそれぞれ十六丈、東と西とはそれぞれ四十丈である。
石人と石盾と各六十枚が、交互に並んで列をつくって四方にめぐらされている。
東北の隅にあたるところに一つ別になった区画があって、名づけて衙頭(がとう)という。《衙頭は政所(まつりごとどころ)である。》その中に一人の石人があって、ゆったりとして地上に立っている。
名づけて解部(ときべ)という。その前に一人の人がいて、裸で地に伏している。
名づけて偸人(ぬすびと)という。
《生きていたとき猪を盗んだ。それで罪の決定を受けようとしている。》側に石猪が四頭いる。贓物(ぞうもつ)と名づける。
《贓物とは盗んだ物のことである。》その処にまた石馬が三疋、石の殿が三間、石の倉が二間ある。
古老はいい伝えていう、雄大迹の天皇(継体天皇)のみ世にあたって、筑紫君磐井は豪強・暴虐で皇化に従わない。
生きている間に、前もってこの墓を造った。
突如として官軍が動員され、これを襲おうとしたがその勢力に勝てそうもないことを知って単身、豊前の国に上膳の県に逃げて、南の山のけわしい峰の間で生命を終わった。
そこで官軍は追い求めたがその跡をうしなった。
兵士たちは憤慨やるかたなく、石人の手をうち折り、石馬の頭を打ちおとした。
古老はいい伝えて、上妻の県に重病人が多いのはおそらくはそのせいではあるまいか、といっている。

『日本書紀』では磐井の官職を筑紫国造としているが、「筑紫君磐井」とは、いったいどのような人物であろうか?

筑紫君

記録にある筑紫君とは、「日本書紀」では「磐井」、「古事記」では「竺紫君石井(ちくしのきみ いわい)」、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」「日本書紀」では「筑紫君葛子(つくしのきみ くずこ)」と記されその後の記載には「日本書紀」の「天智記」と「持統記」に筑紫 薩夜麻(つくし の さちやま)の名前がみられるのみである。

筑紫舞

毎年十月二十二日に宮地嶽神社で開かれる筑紫舞は、芸能の祖と言われる阿曇磯良が筑紫の君の前で最初に舞ったと伝わり口伝により現在まで続いています。

金川文書

近年鞍手の熱田神社に伝わる金川文書には以下のように記されていました。

金川家の先祖は筑紫国造 鞍橋君と記されています。鞍橋君は「本初期欽明天皇紀」に記載される英雄で鞍手郡の名前の元となった弓の名人と記されていますが、この文書には「磐井は孝元天皇の長子である 大彦命の血を引く筑紫国造とされており 鞍橋君は葛子の弟である。」

熱田神社 金川文書

この記載が本当であるならば、磐井は孝元天皇の長子である 大彦命の血を引き姓は大彦命と同じ阿部氏であると考えられます。

阿部氏

高良玉垂神宮秘書の記載

  • 高良玉垂宮神秘書 第一条   月神垂迹底筒男は神功皇后の夫である。
  • 高良玉垂宮前秘書 第四四〇条 住吉のことである。
  • 高良玉垂宮前秘書 第五五〇条 藤大臣 阿部保蓮である。
  • 住吉の社には松を描く(宮地嶽神社の神紋)

ここで判るのは、磐井は開化天皇(底筒男)と神功皇后の直系であるということです。

磐井の乱の原因

では「磐井の乱」は何故起こったのかその原因を探ってみると小郡の若宮八幡宮にその原因が伝わってありそうです。

若宮八幡宮
若宮八幡宮 由緒・略記

応神天皇の皇統が絶え天皇家の御徳を偲び貴楽弐年(西暦507)の創建と言う、古来このあたりは蚊田(賀汰)郷といわれ応神天皇由緒の地であり、北部九州豪族盟約の地であった。
平安期僧空海が唐より帰朝の折当社にこもり真言密教の守護神として京都東寺に分祀。
鎌倉初期領主佐々木高綱により、社領三捨六庁を寄進されて御神幸が御神幸が宮人村五郎九字西郷(現久留米市)まであった。
室町時代戦乱によって武家の庶家より寄進のあった広大な社領は没収され御神事も廃止された。
江戸期には源氏である有馬家の氏社となり毎年例祭に祭祀を奉納された。
明治に村社となり現在に至る。
略~

つまり応神天皇の皇統が絶えたことにより阿部一族の直系である筑紫君磐井が立ち上がったことが原因とされるようです。

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