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磐井の乱

継体天皇

 継体天皇21年(527年) に 朝鮮半島 南部へ出兵しようとした 近江毛野 率いる大和朝廷軍の進軍を 筑紫君磐井 (『 日本書紀 』は 筑紫国造 だったとする)がはばみ、翌 528年 (継体天皇22年)11月、 物部麁鹿火 によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争である。

磐井の乱の記載

近江毛野臣が、六万の官軍を率いて任那(加羅)に派遣される。任務は新羅に破れた南加羅と淥己呑を復興し、任那に併呑することにあった。筑紫君磐井は、これまでひそかに大和政権への反逆の機を伺ってきた。これを知った新羅は磐井に賄賂を贈り、毛野臣の渡航を妨害するよう依頼する。磐井は新羅の勧めを聞き入れて火・豊・に勢力を張り朝鮮諸国の朝貢船を引き入れ近江毛野臣臣の渡航を妨害した。

「日本書紀」第一段

『筑後国風土記』には「官軍が急に襲撃してきた」古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」と記載があるのみで新羅が磐井に賄賂を贈った 近江毛野臣臣の渡航を妨害したという記載は無い。

倭の五王(磐井の系譜)

倭の五王の始祖

大彦命は阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡そ七族の始祖なり

「日本書記」孝元紀

「日本書記」によると大彦によりほぼ日本列島が制覇されたことが記載にある。つまり「日本書記」が「筑紫国造」と記している人物こそが「倭の五王」の一族である。

金川家の先祖は筑紫国造 鞍橋君と記されています。鞍橋君は「本初期欽明天皇紀」に記載される英雄で鞍手郡の名前の元となった弓の名人と記されていますが、この文書には「磐井は孝元天皇の長子である 大彦命の血を引く筑紫国造とされており 鞍橋君は葛子の弟である。」

熱田神社 金川文書

つまり孝元天皇(大彦)の子孫が開化天皇(阿部保蓮)でありその一族こそ磐井である。

倭王

倭の王は孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命)→開化天皇(若倭根子日子大毘毘命 阿部保蓮)→仁徳天皇(大鷦鷯天皇)もしくは菟道稚郎子→清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子)~雄略天皇(倭王武 磐井)

日本王

崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖 中臣鳥賊津)→垂仁天皇(活目入彦五十狭茅)→応神天皇(凡牟都和希)→仁徳天皇(大鷦鷯天皇)~武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯)

和風諡号を見ると判るが倭王の名には倭もしくは日本の名がある。「高良玉垂宮神秘書」によると仁徳天皇は開化天皇と神功皇后の実子だが早逝した応神天皇の跡 日本国の養子となったと考えられる。

「記紀」による系統が絶えたとは仁徳の系統を指す。

磐井の勢力

磐井勢力

ほぼ明確であった磐井の勢力だが明確なのが

  • 宮地嶽神社 神功皇后 阿部勝村・勝頼を祀る神社で筑紫君の本貫である。
  • 粕谷の屯倉 磐井の子 葛子が死罪を贖うために屯倉を献上した。
  • 熱田神社 葛子も弟 鞍橋君が治める地である。
  • 磐井八幡宮 筑紫の君磐井は 火(肥前 肥後)豊(豊前 豊後)の二国を勢力下に治め 肥前地方の一拠点としてここに砦を築いた。
  • 岩戸山古墳 筑紫君磐井の墓
  • 江田船山古墳 ワカタケルのの剣が出土した古墳
  • 杷木神社 磐井の乱の最前線石井神社 磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだと伝わる。

これに火の君 豊の君の領地が加わったものが単純に磐井の勢力と考えられる。

磐井の乱の結末

日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。

また磐井の子 「葛子が死罪を贖うために屯倉を献上した。」と記録がある。

分析

磐井が新羅と内通したというのは「日本書紀」の創作であり 真相は継体天皇の擁立に呼応した任那の利権を欲した倭国の物部麁鹿火(もののべ の あらかひ/あらかい)による下剋上つまり「継体の乱」である。

継体天皇を招いたのは磐井の乱の後で「日本書紀」には継体天皇が磐井の無礼や新羅の進行を阻止したと記録された。

半島の任那の利権が元々倭王が握っており「粕屋の屯倉」とは「半島の利権」のことを指すと考えられる。これにより任那は消滅したと考えられる。

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