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真説 日本武尊伝 草薙ノ剣

福岡県

 饒速日を祀る遠賀川沿い劔岳の麓 鞍手の物部の村に日本武尊と草薙ノ剣にまつわる伝承が数多く残っています。

八剱神社

由緒

八剱神社由緒

祭神
日本武命
素戔嗚尊
宮積媛

由緒
日本武尊熊襲征伐の折国當国を経歴し給う首長田部今朝麿(けさまろ)村人と共に之を迎う首長行宮を築営して守護奉る 尊いたく当地の人情風致を賞し給う 安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す。

参道

狛犬
ニノ鳥居

境内

拝殿
本殿
絵馬堂

中山の稱起り
尊は剣岳に登って、よくよく四方の風景をご覧になって、言いました。「この山は他の山より勝れている。
私が今熊襲を平定して国民が帰服して、おのずから静かになった世の中山かな。」(世の中・中山…掛けことば)と。ここから中山の名が起こりました。

植木・神崎の稱起り
尊御山を下らせ給ひて中山と新入の界にある奇石の下で休まれたその処を神崎といふ 又後の世の為に験を遺そうと弟彦公をやって一株の松の木を植えられた 茲に植木の稱が起こった 社伝による。

いよいよ都に戻ろうとして、この山を降りた時に、雷雨が激しかったので、尊は御供の人たちと木の陰に休み、八つの雷の神を祀ると、雷雨がたちまちに止みました。
(この場所を八雷社と言います。)

熱田神社

劔岳を挟んで表が八剱神社 裏に鎮座するのが熱田神社です。

参道

参道
狛犬

由緒

御祭神
天照大神(あまてらすおほかみ)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀媛尊(みやずひめのみこと)
鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
素盞鳴尊(すさのをのみこと)

御由緒
景行天皇27年(97年/皇紀757年)冬、日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲(くまそ)を討ちに行かれる時、新北の亀甲の名に心を打たれ、ここで口をすすぎ榊葉を取って大麻(おほぬさ)とし天神地祇(てんじんちぎ)を祀られました。その帰途立ち寄ってみると、村人が拝殿を造り祀っていたといいます。
その後の文治元年(1185年)新たに神殿を構え、尾張国熱田大明神【愛知県名古屋市の熱田神宮】を勧請し、元弘元年(1331年)今の社地に遷座されました。

文明年間(1469~1486年)遠賀郡畑の城主香月七郎太夫興則が再興しましたが、元亀2年(1571年)社殿が炎上、このとき、社の上より紫雲が起こり、社の南五町余りの所にある松の木にたなびきました。人々は不思議に思いこの松を「神の飛松」といいました。そして、ここに30年間仮殿を置いていましたが、慶長7年(1602年)黒田家の宰臣小河内蔵充之直(おごうくらのじょう)に請うて今の社地に社殿を造立し、寛永20年(1643年)再興されました。

金川文書

 更にこちらの宮司家は金川様といいこちらに伝わる「金川文書」には金川家の先祖は筑紫国造 鞍橋君と記されています。鞍橋君は「本初期欽明天皇紀」に記載される英雄で鞍手郡の名前の元となった弓の名人と記されていますが、この文書には「磐井は孝元天皇の長子である 大彦命の血を引く筑紫国造とされており 鞍橋君は葛子の弟である。」と記されています。

境内

神紋 五七桐竹紋
拝殿
本殿

摂社

そして最も古い劔神は!

古物神社

ニノ鳥居扁額 八幡大神 古物大明神

境内

御汐井
拝殿

拝殿の前に御汐井があることから海人族の神社であることが判ります。

本殿

由緒

祭神
天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神

八幡宮の縁起に曰く、
古門村は神代の昔、スサノオの命が高天原より出雲国に行く時の旧跡である。十握(とつか)の剣とスサオノの命を昔から祀る神社で、剣神社と号す。

剣神社の縁起に曰く、「天智天皇の御世に、僧・道行が熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。

その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた。

朝廷がこれを聞いて草薙の剣だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻した。これよりその剣が落ちた所を「降物」と言った。剣が自ら降りて来たという意味で、今「古門」と言うのはなまりである。

剣は熱田神宮に戻ったとはいえ、神霊はなお古門に留まっていて、魔を払い、災いを消すということで、万民が崇敬した。」
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。

神功皇后 応神天皇は八幡神社の方の祭神でしょう。

境内社

劔神社
八坂神社

全て拝殿本殿より高い位置に建てられています。これはこちらが格上であることを表しています。

その他のこの地の伝承

水巻 八剱神社の由緒書き
第十二代景行天皇の御代(71年~130年)、日本武尊は筑紫の熊襲征伐の途次、この地にて砧姫を娶られた。尊が東国征伐の帰途、崩御されたのを聞き、尊の仮宮跡に社祠を築き「御館大明神」として祭るを当神社の起源とする。

水巻 八所神社の由緒書き
古代から浮島という小さい山が神社地である。神社の縁起によると、日本武尊が熊襲討伐の折、浮島に上がられ勝利を祈願されたと云う。正徳4年(1714)神社工事の際、土中から石棺が出土し、鈴・甲冑・剣などが発見される。石棺の底石は今も境内にある。この中の鈴は四環鈴と云って「駅鈴」か天皇行幸の「先払いの鈴」といわれ、大事に保管されている。

香月文書
小狭田彦の孫小磐削こいわけノ御剣王は日本武尊と小狭田彦の娘常磐津姫の間に生れた人である。父君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。その賞として祖父景行天皇より武部ノ臣の称を頂いたほどである。御剣王は帰国の後『兎角に父の尊の慕わしくて、尺ノ岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊を祭り玉ひ云々』とある。」
「御剣王の御子天ノ磐代武部ノ種日子王は父に劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀ノ王を嘉麻の碓井の邑主となし、御子天賀那川(かながわ)彦ノ王を新北の神主となし、御子津々賀御ノ王を舞岳(尺岳)日本武尊小狭田彦御剣王合祀の神主となし、御子玉御木ノ王を穂波の郡司となし、御子山戸部ノ王を聞(企救)の司となし、御弟羽羽戸部ノ王を高羽(田川)の主とし、御弟八ツ田大戸部ノ王を暗崎(黒崎)の村主となし玉ふ』云々とある

分析

 総合すると日本武尊は川上タケル征伐の前に饒速日の村を訪れ、物部の一族と縁を結でんだ後 川上タケルを征伐し、東国に行く前ミヤズ姫に劔を預けたのかもしれないということが判ります。その劔は素戔嗚尊が奉納した十握(とつか)の剣でと同じものかも知れませんし天智天皇の時代に降ってきた物と同じ剱かもしれません。古物神社の祭神 熱田神社の熱田は饒速日命のニギタのことかもしれません。

ちなみに八剱神社の名前 八剱は盗まれた草薙ノ剣のレプリカを七振り造り それを置いた八か所の神社を八剱としたことが始まりのようです。

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