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白沙八幡宮

壱岐島

壱岐で一番大きな神社といえば、間違いなくこの神社になります。

参道

この神社の参道は巾は狭いですが長さが長いのが特徴です。

壱岐白沙八幡社社叢

「社叢」とは神社の森のことをいう。白沙八幡神社は壱岐の南東海岸に位置する筒城浜の背後にある旧郷社である。この神社の社殿背後の緩やかな斜面に社叢があり、「鎮守の森」として守られてきた。以前から立ち入ることさえ許されない「禁足の地」であり、枯木、枯枝を持ち出すことも憚れた。社叢の奥に行くにつれ標高が高くなり、地形は険しくなる。林床には転石が多い
~中略~
社記によれば、宇佐神宮からの勧請で、社殿は宇佐の方向(辰、東から南へ30度)を向いている。
ただし、『壱岐神社誌』によれば、石清水からの勧請とある。
八幡勧請以前は、筒城宮あるいは管城宮と呼ばれ、
海神の娘・玉依姫命を祭神とする、海神社であった。

延宝の橘三喜による式内社調査によれば、
近くにある現・海神社が、式内社・海神社に比定されているが、
その後の諸説では、当社が式内社・海神社とされている

この神社の手水舎は大きな岩の空洞です。自然のものか 人口的なものかは判断できません。

拝殿

由緒

御祭神
応神天皇 仲哀天皇 中姫之命 神功皇后
仁徳天皇 玉依姫命 武内大臣
〈由緒沿革〉  「社記」に、「当社は六国史所載の社にして、桓武天皇 延暦六年卯八月三日豊前国宇佐郡より異賊降伏国家擁護 の神として八幡大社に勧請せられたり依って大神殿は辰 の方向に建立せるものなり。」又、「醍醐天皇延喜五年乙 丑十二月二十六日勅宣同月二十八日御神体を此の国に渡 し奉る。」とある。
 『壱岐名勝図誌』に、「古老、伝云昔城列の八幡より渡 り給いし時逆風にて此処の海浜に御船がかりし給うこと 七日、故に其処を神瀬と云う、水主は夕部の浦人なり。 かくして陸に上りまして浜辺の清水にて御水にて御手を 洗い給う。故に其の水を名附けて御手洗と云う(又京水 とも云う)、其処に人ありて諸神に向いて曰、大神は何時 渡らせ給いしやと、答給わく、タ部渡りしと、故に其処 を夕部といえり。其より長岳と云う丘に登り給いて村内 の景色を見そなわして曰、東に清水あり南に蓬来あり西 に和泉あり北に福小路ありつつき徳満崎に宝珠ある村な りと讃め給いしと、其の時神功皇后は右田境の海浜に着 給い陸に上りましし時髷を落し給う故に共の瀬を髷瀬と 云う、今かも瀬と云うは転語なり、又錦の御衣を干し給 う仍て其処を名付けて錦浜という。此の時大神内山(現 在社地)に降り致りまして底津宮根に宮柱太敷立て鎮座 せられたり」と伝う。
 当社は壱岐国大七社の一として古来国民の崇敬する 所、例祭には国主直参の社にして崇敬特別なりしも廃藩 以後一列の村社となれり。
一 明治九年十二月四日改めて村社加列
一 大正四年十二月二十八日神饌幣帛料供進指定神社となる。
一 昭和七年八月十七日郷社に列せらる。
一 同九月十六日神饌幣帛料供進指定神社となる。
 「当社拝殿内に縁由ある石あり。長さ四尺三寸二分、 横二尺八寸一分、高さ二尺三寸六分、板敷上現所高さ九 寸五分韓櫃石の名称あり。古より拝殿改築に際し人々敬 懼して除く事能わざる也。-『石田町史』-

要約すると神功皇后は壱岐にはここから上陸したようです。

それ以前は、筒城宮あるいは管城宮と呼ばれ、海神の娘・玉依姫命を祭神とする、海神社であったそうです。

厳密にいうと宇佐八幡宮は仁徳天皇と岩清水八幡宮は応神天皇と同じ八幡でも別系統であるのですが・・・

本殿

神紋は左三つ巴 安曇磯良の系統で千木斜めのように見えます。

末社

三猿

末社

系図

豊玉彦(大和多津見 八咫烏)と伊可古夜比売命(櫛稲田姫)の間に生まれたのが鴨玉依姫である。
下鴨神社と上鴨神社を繋ぐ人物である。


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