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武雄神社

佐賀県

火(肥前 肥後)の国には武の名を持つ神を祭る神社が存在します。
武雄にも日本武尊と共に川上タケルの征伐に加わった英雄にまつわる神社が存在します。

由緒

御祭神
武内宿禰【たけうちのすくね】
武雄心命【たけおこころのみこと】
仲哀天皇【ちゅうあいてんのう】
神功皇后【じんぐうこうごう】
応神天皇【おうじんてんのう】

御由緒
『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)に鎮座し創祀されました。
而して天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し北麓に遷宮したと記されています。

武・内宿禰に関する説話が記載されている。それによると、「内の宿禰」は父を「比古布都押(ひこふつおし)之命(みこと)」といい、母は「木国の国造の祖・宇豆比古(うずひこ)の妹・山下影日売(かげひめ)」という。九人の子を設けた。
武雄神社に祭られ、近くの大字「山下」が母親の出身地である
『肥 前(ひぜん=火前=佐賀県)風土記』によると近辺は、熊襲の一支族とみられる日下部(くさかべ)氏も活躍していることが記されている。
『晋書』などに記される太伯(姫氏)の裔(しそ ん)・夫差の親族が日本列島に流れ着いた最初の地は「火の国山門(やまと)菊池郡」であったとされる。

これによると母は宇豆比古(うずひこ)=長脛彦の妹とありますので天細女かオキツヨソ足姫ということになるのでしょうか?

景行天皇はオキツヨソ足姫の系統ですので部下の武内宿禰はこの系統の可能性が高いですね。

武内宿禰の父、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと、生没年不詳)は、3世紀から4世紀頃の日本の皇族。彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の王子で第8代孝元天皇の孫に当たる。莵道彦(うじひこ/宇豆比古)の娘影媛(かげひめ)を妃とし武内宿禰を儲ける。古事記で武内宿禰は彦太忍信命の王子となっており、屋主忍男武雄心命は登場しない。
日本書紀景行紀に景行天皇3年2月1日に、景行天皇が紀の国に行幸し、神祇を祀ろうとしたが、占いによると吉と出なかったため、命が天皇より紀の国に派遣され、阿備の柏原で神祇を祀り、同地に定住して紀直の後裔莵道彦の娘影媛を娶り、武内宿禰が生まれたとある。 また高橋氏文に、磐鹿六雁命が卒した際、宣命使として遣わされた「武男心命」が見え、あるいは同一人物か?

別の書では
崇神天皇の御代に、火国造には大分国造と同祖の志貴多奈彦命(彦八井耳命の孫で、敷桁彦命とも書く)の子の遅男江命を定めたと記されている【国造本紀】。設置の時代は問題であるが、遅男江命の遅男江は、【肥前風土記】に肥(火)君の祖とある健(建)緒組の行書を誤写した可能性が強く、遅男江命は健(建)緒組命と同一人物であろう。さらに健(建)緒組命は、日本書紀景行天皇3年2月の条に「屋主忽男武雄心命(一にいう、武雄心命)……紀直が遠祖菟道彦の女影媛を要りて武内宿禰を生ましむ。」とある屋主忽男武雄心命と同一人物視されたのではないかと思われる。もしもそうであれば、武雄神社の祭神の中の武雄心命・武内宿禰(古事記は建内宿禰と書く)と関係が生じてくる。関係というのは、武雄神社の祭神は本来は火国造らの祖の建緒組命であったものが、それを氏神とする武雄地方の豪族(武雄氏?)によって、武雄心命に改められたのでほないかということである。 武雄市史上巻 昭和56年

参道

心字の池
心字の池は、その名の通り「心」の形をしており、例祭の日には心身を祓い清める清祓の儀が行われる。
また、この池に時折姿を現す白鷺は、当社の使いであり象徴とされ「白鷺伝説」にあやかり開運招福の鳥として親しまれている。

鷺は阿蘇氏の象徴ですね!

夫婦檜
当社の御祭神である仲哀天皇・神功皇后の御神威によって、2本の檜が根元で結ばれ、樹の中ほどで再び枝が合着したと云われている。仲睦まじく立っているその姿から根元は夫婦和合を、繋がった枝は様々な縁を繋ぐ縁結びの象徴として信仰を集めている。

荒神社
俗に「荒神さん」と云われる。火そのものの神聖性と畏れの観念が日本古来の荒ぶる神の信仰と一体となって成立した民間信仰の神様の一つで、信仰内容は多様である。
文化13年(西暦1816年)8月に奉斎される。

境内

手水舎

拝殿 本殿

拝殿

千木は縦削ぎ 神紋は扇に日の丸

摂社

塩釜神社

[塩釜神社]
俗に「塩釜さん」と云われ、国土鎮護、商売繫昌、航海安全、安産、延命などの神として一般の信仰が厚い。
武雄に祀られたのは、第28代 武雄領主 鍋島茂義公の時で、公は西洋文化の吸収に力を入れたが、その為に、ややもすると当時、夷狄としての謗りを憂慮して、国土平定鎮護の塩釜社を天保8年(西暦1837年)6月、宮城県塩釜市の総本社に勧請し奉斎したのであろうと云う説がある。

[城山稲荷神社]
城山は御船山の別名であり、安政5年(西暦1858年)9月に勧請し奉斎したとなっている。
倉稲魂神・猿田彦命・大宮女命の三神に摂社の田中大神・四大神の二神を加え稲荷五社大明神と称し、殖産興業の守護神として祀られている。

大楠神社

神社が存在する前からあったとかんがえられるのが

樹齢3000年ともいわれるこの大楠です。
中には十二畳ほどの空洞があり、天神様が祭られています。

武雄あかり展

東京駅設計の佐賀出身の辰野金吾の武雄温泉

御船山楽園

7月~9月迄武雄は光に包まれます。

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